塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき(維新派)

2010/12/05

維新派の「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」を、彩の国さいたま芸術劇場で観てきました。維新派の演劇を知ることになったきっかけは、知人がくれた「呼吸機械」のDVD。その内容に触発されるものを感じたため、昨年の11月には「ろじ式」を生で観て、さらにこの劇団に対する興味を深めていたのでした。

彼らの代表作となるであろう連作が「《彼》と旅をする20世紀」三部作で、「呼吸機械」はその第2部。そして今回の「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」は第3部にあたります。

埼玉公演に先だって行われた岡山県犬島での公演では、彼らの特徴である自然の中の仮設舞台が存在感を示したようですが、この日の舞台はホール内。とは言っても、膨大な量の板と丸太が組み合わされた立体的な舞台は舞台の奥行きをフルに活用したダイナミックなもので、開演前のぼんやりした照明の中でも異彩を放っていました。やがて、定刻を過ぎたところで照明が落とされ、これも彼らの特徴であるミニマル・ミュージックが流れ始めました。

以下は、各シーンのイメージの断片。なお、埼玉公演では犬島公演とは一部シーンの構成が変更されています。

M1「なみのうへ」
ガムランを連想させる南洋民族音楽風の7拍子の曲に乗って、演者たちによる幾何学的なダンス / マイム。黒潮の淡々とした解説。
M3「やしのみ」
浜辺の情景、漂流物を拾う人々。あかがい、あまがい、あさり、はまぐり……さまざまな貝や海棲生物、植物の名前が連呼される。漂流のイメージの中に、ベトナムからのボートピープルや、日本統治下の台湾での教師のエピソードがストレートな語りによって差し挟まれ、時空を超えたイメージが渦を巻き始める。
M4「おかえり」
目と手……冬よか春、春よか夏……ちょとこい、ちょとこい。関西弁イントネーション全開の女性たちによる不気味な言葉遊び。おかえり。でも、誰に?そして、ラプラタ川は銀の川。三部作第一作「nostalgia」との接続。
M5「桟橋」
旅行鞄を提げて舞台正面の桟橋に立つ少年と、彼に向き合う巨大な《彼》。南西諸島の島の名前が次々に読み上げられ、海の道が現れる。
M6「海の道」
東南アジアへと渡っていく、明治の日本人たち。
M7「電柱」
野球。次々に点灯する電柱=灯台。そこはどこですか?そこはいつですか?さまざまな時代のさまざまな場所のエピソードが、次々にボールが受け渡されるキャッチボールのように展開する。
M8「ベンゲット」
マニラからバギオへ通じるベンゲット道路の建設に従事する、日本人移民たち。つるはし、トロッコ。巨大なセットのせり上がりに圧倒される。ダバオでのマニラ麻の栽培。ベンゲットを襲う暴風雨。
M9「ワタシハ声、ハラマイ、ハラマイ」
幻想的なBGMの中を旅を続ける少年に呼び掛ける、幻想的なたたずまいの女たち。波打つ声、震える声。私は入江。
M10「なみおと」
そこはどこですか?そこはいつですか?台湾でのダム建設に従事する男。横浜から伝道のために南洋諸島へ旅立つ男。サイパンに料亭を開く男(と芸者たち)。フィリピンで現地人の妻を娶った男。アラフラ海で白蝶貝をとる素潜りの男。東南アジアでの日本人たちのさまざまな営み、そして太平洋戦争。
M11「しまのかたち・・・」
戦争が、東南アジアに渡った日本人たちの生活を次々に呑み込んでゆく。サイパン島での30年間の営みが、わずか7時間の艦砲射撃で灰燼に帰してしまう。ここはどこですか!堪え難い音の洪水。轟音と閃光とキノコ雲。
M12「1945―2000」
ある者はボルネオ島で終戦を迎え、ある者は水死体となって海流に流され、ある者は家族と離れ離れになって、それぞれに日本に帰ってくる。そして東南アジアのその後の歴史が、年号の連呼と共に語られていく。旧日本兵の姿で舞台上に立ち尽くす《彼》。
M13「漁火」
波の音、灯台、漁火。変わることのない黒潮の流れと、その海流を見下ろす星々の輝きのイメージ。ゆっくりとフェードアウト。

維新派の舞台というと、単語に解体された抽象的な台詞と変拍子の曲に乗った幾何学的な身体の動きを緻密に組み合わせたマスの表現力がポイント、というように思っていたのですが、この「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」では随所に彼ららしからぬ(?)ストレートな台詞と話法が用いられ、ストーリーもある意味見通しやすいものでした。それだけに見終わったときには、何となく淡白な舞台で終わってしまったな、という印象が拭えなかったのも事実。ただ、改めて「nostalgia」「呼吸機械」「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」の三部作をまとめて観なおしてみれば、そこに皮相的な「分かりやすさ」の裏に通底していた重いテーマが顔を覗かせてくれるのかもしれません。巨大な《彼》の存在の意味と共に。