京都の社寺巡り〔大原・嵯峨野〕

京都市内の金剛能楽堂での「先代宗家金剛巌十三回忌追善能」を観るために、土曜日朝ののぞみで京都へ。公演は日曜日ですが、さすがに能二番を観るだけのために京都に足を運ぶほど裕福ではないので、『平家物語』にまつわる謡蹟を訪ねる旅を兼ねることにしました。すなわち、建礼門院の終の住処となった大原の寂光院〔大原御幸〕と、仏門に入った祇王・祇女が庵を結んだ祇王寺〔祇王〕をメインとし、その周辺の寺院を巡る小さな旅です。

2010/10/23

正午頃に京都駅に着いて、駅前のバス乗り場から大原行きバスに揺られること1時間ほどで大原に到着。大原と言えば、やはり三千院。寂光院は後に回すことにして、まずは三千院に行ってみることにしました。

三千院

呂川沿いの土産物屋が並んだ細い坂道を登ることしばしで、三千院に達します。8世紀、最澄が延暦寺を建立した際に創建されたと言いますから1200年余りの歴史があるわけですが、今の地に移ってきたのは明治4年(1871年)と意外に新しく、三千院と呼ばれるようになったのもそのときからだそうです。

こちら、三千院の境内図。赤っぽい木は紅葉を示しているようですが、この時期は境内のもみじは青々としています……。

緋毛氈に座ってお庭を眺めるというのもいいものですが、やはり早いところ境内を歩いてみたいもの。宸殿から青苔が美しい庭に出て、往生極楽院を過ぎたところに「わらべ地蔵」。地面に子供の顔を彫った石地蔵が見えていますが、なんだか怖いんですけど……。

この往生極楽院は、12世紀からこの地にあったものが、三千院がここに移ってきたときにその境内にとりこまれたのだそうです。中には阿弥陀三尊坐像〈国宝〉があり、舟底型に折り上げた天井の下に納められていました。左右の菩薩が和風に正座した「大和坐り」なのが特徴です。

実光院

三千院を出て律川を渡ったところにある実光院では、心字池に律川から引いた水を落とす小さな滝があるこちらの庭を眺めながら、お菓子と抹茶をいただきました。

咲いているのは不断桜。秋に咲き出して紅葉と共に満開になり、冬の間もちらほら咲いて春に再び盛りを迎えるのだとか。鹿威しの音も、いい感じです。こじんまりしていますが、心落ち着く塔頭でした。

勝林院

こちらは勝林院。9世紀に円仁が開いた魚山声明の根本道場で、念仏によって極楽往生できると説く浄土宗の教えを巡る法然と顕真の法論(大原問答)が行われた場所でもあります。欅づくりの向拝柱の上には、彫りが見事な手挾。欄間の彫刻も立派でした。

大原問答の際に光明を発して法然の正しいことを示したという本尊阿弥陀仏。声明が流れる中で拝見すれば、ありがたさもひとしお。なお、近くの呂川・律川の「呂」と「律」は声明の音階で、「呂律ろれつが回らない」という言葉もここから来ているのだそうです。

宝泉院

勝林院の左奥にある宝泉院。こちらも実光院と同様、勝林院の塔頭寺院です。それにしても、異常に巨大な五葉松には驚きました。

額縁庭園。竹林の向こうに里の風情も眺められ、和風美人が座るとご覧の通り絵になります。さりげない気配りがきいている手水もすてき。

こちらは宝楽園と名付けられた庭園。白砂がきれいで、石の使い方が大胆。小さな庭園ですが、ここは大原に来たらぜひ足を運ぶべき、とお勧めしておきます。

来迎院

三千院の前を戻って、さらに坂道を登ったところにある来迎院。9世紀に円仁が興し、12世紀に良忍によって再興された天台宗の古刹。これまた天台声明の根本道場。本尊は薬師・釈迦・弥陀如来〈重文〉の三尊、脇侍は不動明王と毘沙門天です。

寂光院

三千院周辺の寺院巡りはこれくらいにして、坂道を下ってバス停を過ぎ、幹線道路の反対側の山間へ10分ほど歩くと、いよいよ寂光院に着きます。

石段の道は、紅葉の季節はさぞや素晴らしい美しさでしょう……。かつて京都に住んでいたときにここへ来たことがありますが、それはこの本堂が平成12年(2000年)に放火で焼け落ちる前のこと。今の建物は平成17年(2005年)に再建されたものです。

本堂から見た千年姫小松。『平家物語』の中にも登場する松でしたが、やはり火災で被害を受け、平成16年(2004年)に枯死してしまいました。下の写真の御庵室跡のさらに奥に火災で表面を黒焦げにされながらも立ち続けた本尊六万体地蔵尊を納める収蔵庫がありますが、痛々しくはあっても威厳を失わないその御姿を見たときは、手を合わせないわけにはいきませんでした。

建礼門院が庵を結んだとされる場所は、ただの芝広場になっていました。『平家物語』のエピローグである灌頂巻で後白河法皇が建礼門院を訪ねたのは、ここなのでしょう。謡曲「大原御幸」は、その場面をとりあげたものです。そして最後に、建礼門院大原西陵に詣でました。苛烈だった前半生の後に、建礼門院はこの大原の地で心の平穏を見出すことができたでしょうか?

2010/10/24

この日は13時から金剛能楽堂で観能の予定なので、午前中の限られた時間で嵯峨野を慌ただしく見て回ることにしました。

野宮神社

まず足を向けた野宮神社は、黒木鳥居と小柴垣が特徴的です。伊勢の斎王となった女性が潔斎のために一時籠る仮の宮がすなわち野宮で、古くは毎回違う場所に造営されたものが嵯峨天皇の代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになったそう。ただし斎王の制度は南北朝時代限りで廃絶されてしまい、その後この地に天照大神を祀る神社として存続したのが現在の野宮神社です。『源氏物語』の「賢木」に題材をとった謡曲「野宮」は、斎宮となった娘とともにここに籠った六条御息所(の霊)がシテとなります。

常寂光寺

野宮神社から北に向かってさほど遠くないところ、歌にも歌われて有名な小倉山の東麓にある常寂光寺。慶長年間(1596-1614)に開創された日蓮宗の寺院です。石段の左右の苔と、それらに覆いかぶさるようなもみじが美しく、これまた紅葉の季節は素晴らしいでしょう。観光客でごったがえしもするでしょうけれど。

石段を上がったところの鐘楼、石畳。そして謌僊祀。今の仁王門の北にあった藤原定家の小祀を移したものです。

振り返ると、重要文化財の多宝塔。すっきりきれいな形をしています。

謌僊祀の旧所在地の石碑には「藤原定家卿山荘祉」「小倉百人一首編纂之地」と彫られています。その「藤原定家山荘」を偲び後世「時雨亭」が造営された場所は謌僊祀の隣ですが、最初この碑に気付かず、受付のおばさんに教えてもらって再度登り返しました。ただ、本当に藤原定家が小倉山荘を営んだのは、どうやらこの後に出てくる二尊院の方のようです。

落柿舎

ついでに寄った落柿舎は、芭蕉の弟子である向井去来の庵。売る約束をした柿の実が一夜で落ちてしまったためにこういう名前になったのだとか。去来の句は「柿主や木末はちかきあらし山」と読めます。

二尊院

山の斜面を切り拓いて造営された二尊院は、承和年間(9世紀前半)に天台座主・円仁が開き、鎌倉初期に法然が再興したもの。天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学の道場でしたが、江戸時代後期より天台宗に属することとなったそうです。

軒端の松。高札には、藤原定家の歌「志のばれむものともなしに小倉山軒端の松ぞなれて久しき」。

二尊とはすなわち、発遣の釈迦如来と来迎の阿弥陀如来の像〈共に重文〉。また法然上人足曳きの御影には、弟子が絵師にこっそり肖像を描かせたところ足がはみ出しており、それを恥じた法然が念仏で足を消したという謂れがあります。

先ほどの境内から階段を登り、さらに南へ続く細いトラバース道を辿ると、こちらにも時雨亭跡。藤原定家はここで小倉百人一首を撰定したとされています。こちらが本当の時雨亭なら謡曲「定家」にも関わりありということになるのですが、実際はどうなんでしょうか?

祇王寺

いよいよこの日午前中のハイライトである祇王寺へ。『平家物語』における祇王と仏御前のエピソードについては、今さら解説は不要でしょう。それが謡曲「祇王」の題材となっています。ここも苔の庭が超ビューティフル。複数の種類の苔が作るグラデーションが芸術的です。

祇王の生まれ変わり?

この建物自体は、明治28年(1895年)に移築されたもの。奥が控えの間で、丸い吉野窓が特徴的。手前の仏間の左手には、本尊大日如来のほか、清盛、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像が安置されています。

こちらに、祇王、祇女、母刀自の墓。まさに諸行無常、です。そしてこれを見納めとして嵯峨野を離れ、金剛能楽堂へ向かいました。