塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

アジアの女

2006/10/11

新国立劇場小ホールで、長塚圭史作・演出、富田靖子主演の「アジアの女」。「阿佐ヶ谷スパイダース」での活動を中心に人気沸騰中の長塚圭史の作品を観るのは、これが初めて。岩松了、近藤芳正といった面々も見どころ。そして実は富田靖子さんを舞台で観るのも初めてです。

もともと私は富田靖子さんが好きで、演技者としての彼女から漂う凛とした美しさと儚なさ・脆さとの同居した独特の雰囲気に魅了されていました。それなのにNODA・MAPの「赤鬼」「パンドラの鐘」を見逃していたのはとても残念だったので、この「アジアの女」はなんとしても逃したくない舞台でした。

近未来の東京。震災に見舞われ都市機能は麻痺し、人々は混乱している。

街の片隅でひっそりと暮らす兄妹がいた。

妹の麻希子は震災前に精神を病んでいたが、今は落ち着きを取り戻し、兄・晃郎と暮らしている。

そこへ一ノ瀬というひとりの男が訪れ、3人の新しい生活が始まる。

この避難勧告の出ている袋小路には、なにかと兄妹の面倒をみる警察官の村田や、麻希子にボランティア活動を世話する鳥居が訪れる。

多くのものを失ったあと、人間はどこに向かっていくのか……。

会場の構成は、通常の舞台側の奥から続くスロープに導かれてホールの中央奥寄りに大地震で廃墟と化した近未来の東京の一角を模した舞台。その前方と奥(スロープの両脇)に客席を配しており、役者はスロープと舞台上左右の建物を出入りします。広い方の客席から見て上手側の建物はかつて2階建てだった建物が1階が潰れて2階がどんと地面に落ちた家、反対側はアパート跡。その二つの建物はそれぞれ小さいテラスを持っており、その間の平地が役者さんたちが演技をしたり走り回ったりするスペースで、その一角には畑らしきものがしつらえられています。あいにく私が座った席は奥側の前から2列目下手の端で、この畑はアパートの小テラスの死角になって見えませんでした。

芽を出すはずもない畑に水を遣り、もはや生きてはいない父のために潰れた1階の穴の中に食事を下ろし続ける麻希子、アルコールに逃避し袋小路から外界へ足を踏み出すことを強迫的に怖れるようになってしまった兄・晃郎、態度は大きいが創作の才能のかけらもない作家・一ノ瀬の3人が中心で、一見純粋そうでいながらエロ小説を愛読している若い警官・村田と、ボランティアと称して実際は売春斡旋を業とする女・鳥居がここに絡みます。時間の経過は時折差し挟まれる印象的な音楽と暗転とによって表現され、舞台転換は一切なく、登場人物たちの絡みが上述の廃墟の袋小路で淡々と進行していきます。この「淡々と」した感じが不思議に心地良くて倦むということがなく、なんだかこのまま、3時間でも4時間でも彼らのやりとりを眺めていたい、という気持ちにさせられます。ただしそれは、思い出したように差し挟まれる妄想と狂気が舞台に緊張感を供給し続けていたからでもあり、たとえばそれは、唐突に目に見えないハエに追われてもがく一ノ瀬であったり、外界へ出ていった麻希子を探して身悶えし、父の白い手に穴の中へと引きずり込まれる晃郎であったりするのですが、そうしたシュールな情景の中で改めて見ると、ごく日常的な振る舞いとして行われる麻希子の畑の水遣りや父への食事が、どれも恐ろしく絶望的な行為であることに戦慄させられます。

やがて麻希子は「ボランティア」を通じて外界との関わりを取り戻し、中国人・朝鮮人たちの窮状の救済を志すようになって鳥居と対立します。これが「アジアの女」という題名の由来ですが、果たしてこれが成功していたかどうか。作者は関東大震災時の出来事を念頭に置いてこのエピソードを作り上げたのだと思いますが、少なくとも観ているこちらにとっては消化不良の感が拭えませんでした。せっかくの閉鎖空間を活かしきって、もっと内面世界での葛藤の中から、袋小路を出た麻希子の運命を操る方法を探してほしかったようにも思うのですが、このように唐突感を覚えるのは「アジアの女」という題が形作られたときのプロットがその後の作り込みの中で変貌を遂げたということなのでしょうか。

一方、一ノ瀬は晃郎との対話の中からふと畑の物語を紡ぎ出し始めます。その物語とは、こうです。女は、雨の日も風の日も、畑に水をやり続ける。しかし、畑に種は蒔かれてはいない。なぜなら、蒔く種がなかったから。その代わりに女は手紙を土中深く沈め、その文字が土にしみ込むように来る日も来る日も水をやり続ける。とうとう水が土中の手紙に届くときが来た。しかし、その手紙には何を芽吹かせて欲しいのか書いていなかったために、土は何を生やしてやればよいのかと戸惑う。そして遂に土は、何百・何千の種類の植物を、人々のために芽吹かせることを決意する。ずっとダメ作家であり続けた一ノ瀬が遂に創作の泉を掘り当て、輝きながら語り始める瞬間は、効果的な照明の下でこの芝居の最も感動的な場面です。

麻希子は(たぶん)中国人と日本人自警団との抗争に巻き込まれて死んでしまいます。ずっと袋小路を出ることができなかった晃郎は、その知らせを聞いて何かが変わり、ゆっくりと自らの足で外界に踏み出していきます。一ノ瀬は、そんな晃郎には目もくれず、原稿用紙に向かって溢れ出る文章を必死に書き留め続けます。迫りくる地震の轟音、暗転。再び明るくなった舞台上に登場人物達の姿はなく、その代わりに緑の葉が畑を中心に随所に芽吹いていました。

富田靖子さんは声の調子が良くなかったようで少し枯れた低い声になっており、ところどころ「ne」音が「de」音に聞こえたりもしましたが、彼女の「翳り」はやはり魅力的でした。近藤芳正と岩松了も時に身体を張って、しかし基本的には見事な台詞術で舞台を引っ張りました。それだけに、終演後に役者さんたちが出てきてくれなかったことがちょっと残念でした。心からの拍手を送りたかったのに。

配役

竹内麻希子 富田靖子
竹内晃郎 近藤芳正
村田 菅原永二
鳥居 峯村リエ
一ノ瀬 岩松了