塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

赤鬼

2004/10/06

Bunkamuraシアターコクーン(渋谷)で、野田秀樹作・演出の「赤鬼」。このシリーズでは英語・タイ語・日本語の3バージョンが順次上演されていますが、この日我々が観たのは日本語バージョン。1996年に富田靖子が演じた「あの女」を小西真奈美が、段田安則が演じた「水銀ミズカネ」を大倉孝二が演じます。そして「赤鬼」にヨハネス・フラッシュバーガー、「とんび」に野田秀樹。出演はこの4人だけですが、登場人物には村人や長老や赤ん坊(の声)が含まれるので、日本人3人は瞬時に違う人格に切り替わって複数の役柄を演じることになります。

ひょうたんの形をした白く低い舞台がシアターコクーンの空間の中央にあって、客席は四方から舞台を取り囲んでおり、中2階の我々の席からも、思いの外に近く感じました。舞台の高さはちょうど瓶の高さほどで、舞台の周囲をぐるりとめぐるさまざまな色の瓶にはところどころに花が生けられています。そしてまったく唐突に、舞台の向こう側から巨体の赤鬼が、こちら側からは残る3人が登場して舞台の上でにらみあい、一進一退を繰り返した後に嵐の場面。波濤に翻弄されるように狭い舞台の上で4人が手をつなぎあってぐるぐる回ったかと思うと、赤鬼が舞台の外へ消えた途端、その彼らを救出する村人たちの緊迫した、かつ憎しみに満ちたやりとり、そして次の瞬間には救われたあの女が寒さに身体を小刻みに震わせながら椅子に座っているといった具合に、息をも継がせない鮮やかな場面転換が続きました。これがこの芝居の最後にやってくる悲劇の再現であり、あの女が2日後に自殺したことがその兄であるとんびの口から語られてプロローグが終わり、彼の回想の体裁をとってストーリーが紡ぎ出されていきます。

村人に疎んじられる「あの女」と頭の弱いその兄「とんび」、女につきまとう嘘つきの「水銀(ミズカネ)」が暮らしていた海辺の村に、異国の男が打ち上げられたことから物語が始まる。

言葉の通じない男を村人たちは「赤鬼」と呼び、恐れ、ある時はあがめ、最後には処刑しようとする。彼と唯一話ができる「あの女」も同様に処刑されそうになる。「水銀」と「とんび」は捕らえられた2人を救い出し、赤鬼の仲間の船が待つ沖に向かって小船を漕ぎ出すが、船影は既になく、4人は大海原を漂流するのだが……。(Bunkamuraウェブサイトより引用)

ごく表層的な割り切りをしてしまうと、共同体にとってのアウトサイダーを「鬼」と呼んで排除する人間の残酷さを告発するために1時間半の芝居に仕立ててみせたということになるのですが、赤鬼と深く関わることになるあの女ととんびの兄妹もこれまでよそ者扱いを受けており、水銀も嫌われ者として受け入れられてこなかったという重層構造がストーリーに厚みを加えています。そして救助された後に飲ませてもらったスープの味から、飢餓のさなかにあった自分の命をつないでくれた「フカヒレスープ」の正体を知ったことが決して絶望しないと語っていたあの女の絶望に、そして冒頭の身投げのシーンにつながるのですが、その謎解きは最後の最後まで持ち越されます。

偽りは、真実を生むためのつわりだとうそぶく水銀にも「海の向こう」を知りたいと願い続けるピュアな一面があり、その夢はあるいは小さな浜の因習からの逃避に過ぎなかったのかもしれませんが、そこにあの女の「絶望」が沈んでいる、というとんびによる最後のナレーションによって水銀の夢も打ち砕かれます。また赤鬼は、遠い昔に祖先が離れた岸辺(彼らにとっての「海の向こう」)を探して海に乗り出した仲間たちの先遣で、浜辺に流れ着く瓶は沖の船からのメッセージだったのですが、ついには仲間の船から見捨てられ、孤独のうちに海の上で餓死します。彼らの世代を超えた夢は潜んでいた洞窟に赤鬼が刻んだ文字をあの女が読み上げることによって語られ、その思いはそれだけで一つのストーリーが描けるほど重いものですが、この芝居の中では赤鬼漂着の理由づけにとどまります。大人数で演じるNODA・MAP方式ならあるいはこれら「水銀の物語」「赤鬼(たち)の物語」を同時並行させてそれぞれに決着をつけたかもしれませんが、この芝居ではあの女を中心とした主題の深彫りに集中して、後はばっさり切り捨てた感じです。

しかしそれだけに、観客の視線は息を呑むほど鮮やかな場面転換の妙技と舞台上の役者の動き、とりわけ小西真奈美の演技に吸い込まれて、あの女に純粋に感情移入することができました。すらっと手足が長く清楚な顔立ちの彼女が影のあるあの女や村人、村の長老を次々に演じ分けるその一挙手一投足には目が離せず、観ているこちらの心臓をわしづかみにするような輝きが感じられて圧倒されました。偽悪的な水銀を演じる大倉孝二も魅力的。野田秀樹と小西真奈美との3人での演技が上演時間の多くを占めるのですが、存在感のバランスがとてもよく、その中で水銀というキャラクターの多面性を印象づけていました。

ひょうたん舞台の上で使われる小道具は、楕円形の分厚いサーフボード状の板(舞台の一部をとり外したもの)、椅子のかわりになる円筒、白いポール、そして瓶と花(赤鬼の主食)など。なかでも白いポールは、横に網をかける棒をわたして壁になったり、あの女が住む家や赤鬼が閉じ込められている洞窟の入口になったり、赤鬼が村人の赤ん坊を抱えて逃げ惑う森になったり、漂流する小船のマストになったりします。目まぐるしい役者の役割転換も含め、観客の想像力を最大限に引き出す「見立て」の演出は野田秀樹ならでは。

終演間近、目指していたはずの赤鬼の仲間の船はもはやおらず、あてどなく大海原を漂流する小船。飢餓によって衰弱しながら1人正気を保つ水銀と笑い続けるしかない3人。照明の短い暗転の繰り返しによって示される時間の経過の果てに訪れた赤鬼の死は、小さな断末魔の声と魂が舞台を去っていく姿で示されます。やがて嵐につかまり、息もたえだえの3人が大揺れの小船の上で翻弄され、冒頭の嵐〜救助の場面がループのように再現されて、ここで観客は開演直後のあの激しい場面転換の連鎖の中に出てきた「フカヒレスープ」の意味を知ることになります。長らく自分を排除してきた村人たちに命を救われ、その村人によって与えられたスープの味により、赤鬼の理解者だったはずの自分が赤鬼を食って生き延びたという逆転の事実の重みに耐えきれなかったあの女は鬼が人を食うんじゃないのね……人間が生きるために食べるもの、それが鬼なのよと述懐して、岬から身を投げることになります。

最後にとんびの独白を背にあの女の魂が海のかなたへと消えていく場面で暗転し、終演。舞台が再び照らされて客席から穏やかな、しかし長く心のこもった拍手が鳴り響き、小西真奈美の目にも光るものが見えたような気がしましたが、それはさまざまな感情が込み上げるにまかせていた自分の錯覚だったかもしれません。

中盤、あの女と赤鬼とが2人きりでしみじみと語り合う場面。初めは通じていなかった赤鬼の言葉が徐々にあの女にも聞き取れるようになってきたある日、赤鬼が語り掛けた言葉は観客の耳にもなじむ英語(とはいえやはり聞き取りにくい)になりましたが、しかしあの女は、赤鬼の言葉がでたらめに聞こえていたときには赤鬼の言うことがよくわかったのに、そのコトバが聞き易いものになってくると赤鬼の言うことがわからなくなる、と沈み込みます。

この英語での台詞は実はマーティン・ルーサー・キング牧師の演説I have a dream...の引用で、芝居を観たときにはそれと認識できていなかったのですが、後日、ふとしたことから本作の戯曲を読み返したときにようやくそのことに気付きました。そうした目で見直してみると、遠い昔に赤鬼の祖先が離れたという故郷の描写に見られる熱帯系のイメージも、その岸辺を離れた理由が明示的に書かれていないことも、納得がいきます。アレックス・ヘイリーの『ルーツ』を連想すれば、赤鬼にとっての「海の向こう」がどこかは容易に想像できるからです。

この芝居の主題に直結しない部分での設定ではあるものの、振り返ってみて、赤鬼を演じたヨハネス・フラッシュバーガーが白人であったことが芝居を観たときに自分が上記のことに思い至らなかった理由であったことに気付き、少しショックを受けました。〔2020年7月1日追記〕

配役

あの女 小西真奈美
水銀 大倉孝二
とんび 野田秀樹
赤鬼 ヨハネス・フラッシュバーガー