ヘルンリヒュッテへ

2003/07/21

朝、テレビの天気予報を見るとちょうどこの日にスイスを前線が通過することになっており、画面には雲と雷のマークが踊っています。朝食をとりに食堂におりると、昨日まで閑散としていたのに今日はどこから湧いたのか日本人宿泊客がいっぱいで驚きました。その中でカルメンさんが「いよいよBig Dayね」と声を掛けてくれましたが、そうは言っても今日の行程はヘルンリヒュッテまでで、それも18時半までに着けばいいので出発は午後です。そこで午前中は町中をふらふらと散歩し、ついでに山岳博物館を見に行くことにしました。

朝9時頃のツェルマットは店もほとんど開いておらず、巨大なごみ収集車(日本のそれの3倍くらいの大きさ)がバンホフ通りを行き来していて、雨模様のせいもあり観光地という感じがしません。そのバンホフ通りを歩いていると向こうからアルピンセンターのマヤが歩いてきたので「Good morning.」「Guten Morgen.」と挨拶を交わしました。この3日間、毎日16時にアルピンセンターに通っているのですからもうすっかり顔なじみというわけです。さらにスーベニアショップのヴェガ(Wega)に立ち寄ると「あっ、○○さん!」とハスキーな声が掛かって、それはパウダーバーンのIさんでした。Iさんはヴェガに勤務している日本人店員の友人(とてもチャーミングな女性だったので勝手に「Cさん」と呼びます)とアフターファイブの計画の打合せをしていたようでしたが、Iさんも「いよいよですね」と激励してくれ、またCさんは店内にある写真集でヘルンリ稜の様子がよくわかるものを見るように勧めてくれました。

10時開館の山岳博物館はアルピンセンターの裏手にある2階建ての小さな建物で、受付のおじいさんに料金を払って中に入ると、1階にはアルプスの動物(アイベックスなど)の剥製がまず置いてあり、さらにマッターホルンのレリーフやアルピニズム黎明期のさまざまな記録、マッターホルンの四つの壁のルート図や登攀記録など、2階には初登攀時の山岳ガイドであるタウグヴァルダーが住んでいた家の台所や寝室を再現したもの、それに古い写真や版画、初期に使われたピッケル(ずいぶん長い)などの登山用具が展示されていました。しかし目玉はやはり、1階奥の小部屋に集められた、マッターホルン初登者ウィンパーにまつわる展示です。

イギリス人ウィンパーはイタリア人カレルとの初登競争に勝ち、1865年7月14日に初めてマッターホルンの山頂に立つ栄誉を獲得したのですが、ロープで互いをつなぎあっての下降の途中でパーティーの1人が足を滑らせ転落。残るメンバーも次々に引き込まれてしまい、4人が北壁を1200mも転落する悲劇となりました。ウィンパーとガイドのタウグヴァルダー父子の3人は、タウグヴァルダー(父)の下でロープがちぎれたためにかろうじて助かったのですが、このときタウグヴァルダーがロープを故意に切ったのではないかと疑いをかけられたそうです。そのちぎれてほつれたロープもここに展示されているほか、転落者たちの遺品や写真、当時の新聞記事なども見ることができて、とても興味深いものでした。

マクドナルドでビッグマックセット(CHF10ほどもした)を食べてホテルに戻り、いよいよ正午頃に出発。ゴンドラに乗り込んだのは12時半ですが、途中駅のフーリからシュヴァルツゼー行きに乗り換えてしばらくしたところで強烈な雷が襲ってきました。

雷鳴・稲光・土砂降りの雨。ゴンドラは頻繁に停止し、乗っているこちらは生きた心地がしません。普通なら20分もかからないだろうと思われるところを1時間もかかって台地上のシュヴァルツゼーに到着しましたが、ここには駅舎はないので近くのレストランに走って雨宿りしました。

しばらく待機しているうちに雷は遠ざかり、どうにか雨も上がってきました。前方のマッターホルンは荒々しい雲に取り巻かれて恐ろしい形相をしていますが、とりあえず雷に打たれなければヘルンリヒュッテまでは辿り着けるはずだと自分に言い聞かせて歩き出し、ツェルマット方向からそのままヘルンリ稜へと続いている岩稜を最初は左、途中は右から巻くように進み、最後はジグザグに登って2時間ちょうどでヘルンリヒュッテに到着しました。ただし途中で動物の糞の匂いが強烈なリフト駅に30分雨宿りしましたから、実働1時間半でシュヴァルツゼーからヘルンリヒュッテまで歩いたことになります。

到着したときはちょうどヘリコプターがヒュッテのヘリポートへ滑り込むように着陸するところで、そのものものしい雰囲気には驚かされましたが、後で聞いてみるとこのときの雷によりソルベイヒュッテ付近で死者が出たのだそうです。

ヒュッテに入り、受付でバウチャーを見せて「今日ここに予約しているんですが」と言うと、受付の15〜16歳くらいと思われる女の子が「ちょっと待ってて」と告げて奥のお姉さん(?)に声を掛けていましたが、何か言われて自分で説明を始めました。「ガイドミーティングは18時半からここ(受付の前)で、夕食は19時から。これがチケットです(と真っ赤な小さい紙片を渡す)。あなたの部屋はROOM2でベッドは1番です。部屋の場所はあの(と奥を指差して)階段の上です。明日は3時半までに起床して下さい。テルモスがあれば飲み物を入れておきますので、ディナーの後に出しておいて下さい。でもちょっとお金がかかります。6フランです」。ここで横のお姉さんからチェックが入り「ごめんなさい。間違い。タダです」と訂正されました。さらに「明日出発するときは部屋に何も残さないようにして下さい。あの(と指差して)かごに入れて、ここに出して行って下さい」と説明を受けました。女の子の口調が妙に緊張していたので、どうやらこの子は英語で受付を行ったことがあまりなく、お姉さんから「あなたがやってみなさい」と言われておっかなびっくり話しているらしいことがわかったのですが、とてもわかりやすい説明で問題なく、むしろ好感をもちました。

指定された部屋に上がってみると、部屋のつくりは日本の山小屋とよく似た2段の蚕棚方式で、寝床のマットの上には各人に枕と毛布2枚が割り当てられています。さっそくプラスチックのかごを持ってきて明日残置するものと持って行くものとを振り分けたら、その後はすることもなく、雨模様の外を眺めたりベッドで寝過ぎない程度に仮眠をとったりしながら過ごしました。

18時半からはガイドミーティングで、受付のすぐ前のテーブルがリザーブされており、そこでオレンジジュースとワイン、それに小さなお菓子が用意され、ガイドとお客が集まりました。ここに集まったお客は7人のようで、私に引き合わされたガイドはシュテファン(Stefan Kreuzer)といい、年齢は比較的若く、体つきはそれほど大きくないスポーティーな感じの男です。ルートの状況をシュテファンに聞いてみたところ「氷があるだろうけど、何とかなるさ」とのこと。トレーニングではどこを登ったか、といった話をしばらくしてから「ディナーの後で装備チェックをやるから、またそのとき会おう」と言ってシュテファンは去っていきました。19時からは同じ場所でディナーとなり、最初にスープ、次にポークソテーとハッシュドポテトに豆とにんじん、最後にクリームのデザートという3品が出ました。メインディッシュはかなりボリュームがありましたが、同席になったハンサムなドイツ人のペーター(Hans-Peter:話しているうちに、彼は私と同じホテル・カリーナに泊まっていることが判明)とスイス人で3枚目のダニエル(Daniel)が気さくにいろいろ話し掛けてくれ、あれこれおしゃべりをしているうちにいつの間にか全部たいらげることができました。あるいは2人は、この夜たった1人の東洋人だった私を気遣ってくれたのかもしれず、それだけに自分の英語力の不足で思うようにコミュニケーションができないことを残念に思いましたが、それでも2人との会話は楽しいものでした。明日の天気のことは当然ここでも話題にのぼりましたが、ダニエルがこのときばかりは真面目くさった顔で「We cannot change weather, only accept.」と東洋的諦観を披露していました。

夕食後にシュテファンがやってきて、一緒に部屋に上がり装備チェック。まずアイゼンを靴に着けて調節がうまくできているかどうかを確認し、後は持っていくものを順番にチェックしました。ヘルメット、ハーネス、ヘッドランプ、雨具、手袋2種……「Food?」と言われてコンデンスミルクのチューブを見せたところ「それだけか?食べるものはいいのか?」と聞かれましたが、これがいつもの私の行動食です。最後にカメラを見せて装備の確認は終わり「明日、朝食は15分以内に済ませるように。It's very important.」と念を押してシュテファンは下の階へ帰っていきました。このチェックが終われば後は寝るだけで、周囲では他の登山者ががさごそやっていますが、こちらはアンダーウェアを長袖の雪山仕様に着替えフリースを着込んで暖かくして毛布にくるまると、あっという間に眠りに落ちていきました。