塾長の渡航記録

塾長の渡航記録

私=juqchoの海外旅行の記録集。遺跡の旅と山の旅、それに諸々の物見遊山。

ミトラ

2008/12/29 (2)

タクシーを降りたのは、オアハカの中心部の広場=ソカロ。料金はN$360で、それにチップN$40を足してN$400を運転手に渡しました。ちょっと高いようにも思いますが、十分にその価値のある早朝のオプショナルツアーでした。

多少時間にゆとりがあるので、ソカロからホテルのある北の方角に向けて歩く道すがらポインセチアの赤い葉に彩られた広場に面したカテドラルを見学し、さらに石畳の道を進んでサントドミンゴ教会に入ると黄金の輝きもまぶしい壮麗な主祭壇の右手のサンタロサリア礼拝堂では結婚式の最中でした。どうぞお幸せに……。本当は教会の近くのオアハカ文化博物館(モンテ・アルバンから出土した翡翠の頭蓋骨などが展示されています)にも行きたかったのですがあいにくこの日は開館しておらず、仕方なくそのままホテルへ戻りました。短時間の散歩ながら、オアハカの町はコロニアルな雰囲気を多分に残したとても綺麗な町でいつまででも歩いていたいところだと思いましたが、残念なのは落書きが随所に見られることです。昨日空港に迎えに来てくれたシルビアもそのことを嘆いていました。

ホテルに戻ったら真っ先に受付のお姉さんに御礼を述べました。このホテルのお姉さんたちは皆、オアハカの町同様にとても感じが良い人たちでした。さて、10時になってやってきた今日のガイドは、すらっとハンサムで、なぜか常時ハンドグリップを握りしめて握力増強に努めているルイスです。彼の運転する車で向かうこの日のメインの目的地はミトラですが、その途中で立ち寄ったのは下の写真の「トゥーレの木」でした。

イトスギの一種で樹齢2000年だそうですが、なるほどこれはでかい。木の足元にあった標示には直径14m、高さ42mと書かれており、アメリカ大陸最大の木なのだそうです。また、ルイスの言によればこの辺りは昔は湖の底だったそうで、地下に水が豊富に蓄えられており、この木は1日に4トンの水を吸い上げているのだそうです。周囲にはこの木の仲間らしい木があちこちに立っていますが、確かにサンタマリア教会に立つこの1本の大きさは突出しています。

再び車でオアハカ盆地内を移動しましたが、広闊な盆地の眺めは日本にはなかなかないもので、そこかしこに見られる黄色い草、小灌木、サボテン、それに竜舌蘭やトウモロコシの畑は、いかにもメキシコの景色です。そしてオアハカの町から東へ40数kmで着いたのがミトラ村ですが、何気なく村の様子を眺めていたらいきなり目の前を赤いトゥクトゥクが通り過ぎたのには驚きました。そういえばペルーでもこの手のタクシーを見掛けましたが、インド・東南アジアと中南米の意外なつながりを見る思いです。

さて、サンパブロ教会をちょっと見てから露店の賑わいの間を抜けて、この日のメインイベントであるミトラ遺跡に向かいました。これもルイスの言によれば、教会の白い石は元のミトラの遺跡を壊して流用したもの、ピンクの石は新たに切り出したものなのだとか。メキシコのキリスト教は先住民の文化の破壊の上に成り立っているということを、ここでも痛感しました。

遺跡の外側の壁には、ミトラに典型的な階段状の雷文が美しい幾何学文様を示しています。ミトラはサポテカ人がモンテ・アルバンを放棄した後のpost-Classic期に栄えた祭祀センターとされていますが、スペイン人が訪れた時期にもまだ機能していたそうです。

こちらは北の中庭で、建造されたのは14世紀頃とされています。本来は北の中庭を囲むように四辺に建物があったはずですが、現在はこの北側の建造物しか残っておらず、中庭も中央に高さ15cmほどの祭壇状の遺構を残すのみでさっぱりとしたものでした。また、セメントの灰色の部分は本来は赤く塗装されているのですが、このときは修復工事中だったようです。この点に関しては以前ティカルのIV号神殿でも思ったことですが、遺跡の「修復」という名目でほとんど再建築に近いところまで大胆に工事しているのは果たしてありなのでしょうか?

北の中庭の北側にある石柱のホールは、元は植物性素材の屋根が葺かれていた模様。壁の一部には赤く塗られた漆喰が残っていました。

石柱のホールの北側にあるモザイクの中庭から、鉄骨(!)で頭上を支えられた開口部をくぐると……。

中にもこれでもかというばかりの雷文が連なっていました。これは美しいものだと感嘆しましたが、こうした石組みを作るのにどんな道具を使ったのか?とルイスに尋ねたところ「不明」とのつれない返事でした。

こちらは北の中庭のすぐ近くにある南の中庭で、皆が見下ろしているのは地下墳墓です。

墳墓の中には棺はありませんが、壁にはやはり美しい幾何学文様が連なっています。同じサポテコ遺跡でも、モンテ・アルバンのスケールの大きさに比べるとミトラは中庭を中心とした幾つかの建造物群が残るだけのちょっと寂しいものでしたが、彼らの創造力は、オアハカ盆地を睥睨する山上都市の壮麗さを捨てて、シンプルな平面プランの壁面を飾る幾何学文様の細密な世界へと内向していったように思えます。ただし、最盛期のミトラがどれだけの広がりを持っていたかは短時間の訪問ではわからないこと(上記の2つの中庭は5つある建造物群のうち「石柱のグループ」のみ)ですし、上述のようにスペイン人が来訪したときに機能していたがためにかえって徹底的な破壊を受けたという事情もあったかもしれません。

サンパブロ教会の裏側にもこうした遺構が残ってはいますが、教会の外壁の代わりに残されたものだそうで、遺跡としてきちんと保存されたものではないようです。

ちょっと寂しい気持ちになるミトラ訪問を終えて、ルイスの車でオアハカに向かいました。途中でテオティトラン村の織物工房に立ち寄って染織や機織りの実演を見せてもらった後、店舗に案内されて「一つどう?」と勧められましたが、1m×2mのピカソ牛の柄の織物がN$16,000!半分に値切っても8万円?「いや〜、旅行代でもうすっかんぴんで無理!」と言い訳したところ、店のおばさんたちも「仕方ないね」という表情で見送ってくれました。

ホテルまでルイスに送ってもらったら、空港行きの迎えが来るまでの時間を使って町の中を散策しました。まずはオアハカの遺跡に関する本を買おうとしましたが、ルイスに教えてもらった書店はあいにく年末につき休業中でした。

偶然見つけた、民家に侵入を試みるサンタ。クリスマスならではのジョークです。

満艦飾の町、露店の賑わい、テオティトランのショップ。この町は治安もよく、旅行者でも安心して歩けるのがうれしいところです。

ホテルに戻って、涼しいパティオでサンドウィッチとコーヒーを注文しましたが、このサンドウィッチにはさまっている白いチーズが絶品でした。ほんのり塩味と甘味があって、チキンのような歯ごたえもあり、一緒にはさまっているアボカドやレタス、トマトとの相性も抜群です。オアハカはチーズが特産品だと聞いていましたが、これには納得です。やがてやってきたシルビアに空港まで送ってもらいましたが、車の中で朝一番にモンテ・アルバンに一人で行ってきたことを話すと彼女は少し驚いた様子で、一方、同乗していたシルビアの同僚たちは大いに感心していました。

滑走路からは向こう側にモンテ・アルバンの丘が見えています。おっ、これはオアハカ最後の眺めとしてうってつけだぞ、と離陸時から写真を撮り続けたのですが、なんと飛行機は旋回しながらモンテ・アルバンの上を通るコースを上昇し続けました。うーん、こうなると知っていたら動画で撮ったのに、惜しいことをしました。

次なる目的地はパレンケです。いよいよ明日からマヤの遺跡を訪ねる後半の3日間となるのですが、パレンケへの起点となるビジャエルモサへオアハカから直行するローカル便は(不況のため?)飛んでいないので、いったんメキシコシティに戻らなければなりません。かくして1時間でメキシコシティへ戻って空港でぼけっと5時間待ちの後、メキシコシティのオレンジ色の光の海を後にしてB-737は一路東へ向かいました。

1時間半ほどのフライトでちょうど日付が変わる時刻にビジャエルモサに着くと、滑走路が濡れていました。ロビーで待っていた運転手は、簡単な自己紹介の後に曰く「dos horas a un hotel.」。えっ!ここから2時間?ということはホテルに到着するのは午前2時?彼が運転する車は真っ暗な街道をひた走りましたが、途中もの凄いスコールが断続し、事故車も出ていたりして少々どきどきしました。命の縮むドライブを終えてHotel Plaza Palenqueに到着し、フロントで宿泊手続をしたのですが、フロント係がいくらベルを鳴らしてもポーターが出てきません。困った顔の彼に「もういいよ!自分で部屋に行くから鍵を渡してくれよ」と迫ると、気の毒な彼は自分で部屋まで案内してくれました。やれやれ。こうしてどうにかベッドに入ったときにも窓の外には雨音が響き渡っており、これでは明日のパレンケ遺跡は厳しいかな、と思いながら眠りにつきました。