チェス

中学・高校ではチェス部に所属。

中学1年生(1972年)の秋に、同級生の小林が同じ1年5組の連中をごっそりかき集めて作ったのが「麻布チェスチェッカー同好会」。なぜチェスだけでなくチェッカーの名前も冠されているかというと、当時使われていた廉価版のチェス盤にはたいていおまけで赤と黒のチェッカー駒が付属していたからです。ちなみに同好会費は月20円也。私もこの小林の勧誘に深く考えもせずに乗ったクチですが、最初はルールもまったくわからず、誰かが買ってきた東公平氏の入門書で定跡を一つ一つ覚えては試していました。

1974年から翌年にかけてテレビで放映された「宇宙戦艦ヤマト」は部内でも一世を風靡し、左右どちらかのルークを3段目に浮かせてからクイーンの前に転回して「波動砲定跡」などと呼んでいたのも懐かしい思い出です。もっともこの定跡(?)は、いたずらに相手からの攻撃対象を作るだけで勝率には寄与しなかったような気もします。

さらに一時期は象棋(中国将棋)やハイキング、はては野球もメニューに加えて遊んでばかりいましたが、棋力が上がるにつれて徐々に仲良しクラブから脱し、純粋にチェスの技量を競うようになりました。

▲1974年(中三)の文化祭でオセロの駒を片付けている私。なぜか髪型が二八分け。

中学2年生のときの文化祭参加、部室獲得。さらに中3になってからの日本チェス協会(JCA)の大会への選手派遣と立教大学との他流試合(立大の学園祭に出展していた同校チェスサークルへの喜多見と私の道場破りがきっかけ)、高1での初合宿、といった具合に、試行錯誤の中で着々とサークルとしての実績を積み上げていけた背景には、麻布学園の「自由の校風」と学園紛争後の進取の雰囲気のようなものがあったように思います。特に合宿最終日前夜の深夜に及ぶ大討論大会は、このときから恒例の行事と化した模様。

チェス部における「団塊の世代」と言える我々が高2の冬で引退したことで、後を託された後輩の篠原君たちは大変な思いをすることになったと思いますが、それでもその後代々の部員が今日までクラブの灯を絶やさず、国際試合に選手を派遣するまでになってくれたことはうれしい限りです。そして何よりも、初代顧問の近藤先生と2代目顧問の加藤先生のお導きがなければ、今日までの歴史を積み重ねることはできなかったでしょう。

▲麻布学園の会議室での大会風景。おそらく高二の冬。左から篠原君・私・山崎・喜多見。

選手としての私は自分で言うのもなんですがクラブの内外でそこそこの成績をあげており、特に黒番(後手)でのシシリアン・ディフェンスでは高い勝率を誇っていました。大学に入ってからもチェスを続け、いくつかの大会で盾をいただいたりもしていましたが、次第に掛け持ちの洋弓の方が忙しくなり、クラブ運営は同じ麻布チェス部出身の山岡に任せきりに……。

▲大学に入ってから参戦したいくつかの大会で獲得した盾。左から「第4回関東学生チェストーナメント新人戦準優勝」「1978モービル東京オープンチェス大会ジュニア優勝」「第9回日本学生チェス選手権オープン戦優勝」。いわゆる過去の栄光です。
▲自宅には大理石のチェス盤もありますが、残念なことに白のナイトが1人、ある日のホームパーティの翌朝に夢の島へ旅立ってしまいました。よって、このチェス番と駒たちはただのインテリアと化しています。

1997年に中学・高校のチェス部の25周年の記念式典で指したのを最後に10数年も人を相手にチェスを指す機会がなく、飛行機の中のチェスアプリや、あるいはiPhoneのアプリをたまに起動するくらいだったのですが、2011年の師走に同じチェス部の30年近くも後輩でFIDE Master(その後International Masterに昇格)であり、全日本選手権などでも何度も優勝している小島慎也氏が(何がきっかけだったのか?)私のTwitterアカウントをフォローして下さったのをきっかけに、私も小島氏のブログを拝見するようになり、そこから知ったオンラインチェスのChess.comにも登録してチェスを再開することになりました。以来、同時並行で数局をまったり指し続けています。

果たして、過去の棋力(←大したことはありませんでしたが)が蘇る日は来るのだろうか……などと思いながら真剣に学び直すこともなく日々を過ごしているうちに、チェス部はとうとう50周年を迎えました。あの教室の片隅で生まれた同好会が半世紀も続くとは思いもよりませんでしたが、バトンを渡し続けることの尊さをあらためて実感した次第です。