2017年04月の徒然

亜蘭

2017/04/17

4月16日、Allan Holdsworth逝去。享年70歳。

私が彼のギターを初めて聴いたのは、Bill Brufordの初ソロ作『Feels Good To Me』でだったと思いますが、何と言っても印象が強いのはU.K.の「In The Dead Of Night」でのギターソロです。

しかし、そのU.K.において何が起こったかをBill Brufordの自伝から引用してみると……。

エディとアランの違いは、ある日エディが、世界でもっとも素晴らしいインプロヴァイザーの一人で、インプロヴァイズすることが無上の楽しみだったアランに、おそらく作品の一貫性のために前述のアルバムで彼が演奏した同じソロを毎夜演奏することを頼んだことに表されている。アランは、この要請の理由を全く理解することができなかった。

ジャズに通じ即興演奏を志向するAllanとBill、構築的な音楽でメインストリームを目指すJohn WettonとEddie Jobson。この組み合わせでバンドが成り立つはずがなく、U.K.は分裂してしまいます。この当時のインタビューの中でEddieはAllanのことを「ソロパートになってスポットライトが当たると、影に逃れようとする」人物だと評した記事を読んだことがありますが、そうしたAllanのナイーヴな性格はBillの自伝の中でも描かれています。

その後Bruford『One Of A Kind』までしかAllanのことはフォローしていなかったのですが、ギターレジェンドとしての彼の名前は常に意識の中にありました。当然、彼のソロ作『Road Games』(1983年)も持っていますが、このアルバムはレコード会社と契約もできず手持ちの機材をすべて手放すほど経済的に不遇になってしまったAllanを見かねたEdward Van Halenが支援したことで世に出た……といった話が解説の中に書かれていたような記憶があります。おかげでこのアルバムが転機となり、以後Allanはソロギタリストとして安定した活動ができるようになったのでした。そうそう、彼がヴァイオリンを弾いている曲があるということでTempestの『Tempest』(1973年)も後から聴きましたが、残念ながらEddie Jobsonによる「Forever Until Sunday」の流麗なヴァイオリンとはかけ離れたものでした。

彼の演奏を生で聴く機会はあまりなく、2008年のTerry Bozzio他とのセッション2009年のソロ名義の2回だけでしたが、それでもAllanならではのプレイを堪能できたことを覚えています。

Allan Holdworthというとアタックを消した流れるような単音ソロばかりを連想しがちですが、異常に長い指を活用した摩訶不思議なヴォイシングでのコード弾きも唯一無二。こちらの「Tokyo Dream」の映像(私もLDで持っています)ではそうした彼の特徴がよく見て取れます。ドラムはChad Wackerman、ベースはJimmy Johnson。

あの世でもChadやJimmyのような凄腕のバンドメイトに恵まれて、思う存分にギターを弾けていればよいのですが。

廿年

2017/04/13

早いもので、このサイトも今日(4月13日)が開設20周年。

これはどこかで見た出だしだと思ったら、10年前にも同じようなことを書いていました。それにしても、どうしてこんな中途半端な日付でオープンしたのか……。

1997年に物は試しと興味本位で立ち上げたこのサイトの当初の内容はなんということもない日記系で、その痕跡はこの「徒然日記」の古い記事に残っていますが、その頃の制作環境はこんな感じでした。

  • 使用コンピュータ:Macintosh Performa 5320
  • 使用HTMLエディタ:クラリスホームページ
  • プロバイダー:IIJ4U(ディスク容量は2MB)
  • 通信環境:Performa 5320内蔵の14,400bpsモデムによるダイヤルアップ接続

しかし、比較的早い段階で「鑑賞記録」と「山行記録」が分離し、そこに「渡航記録」を加えた現在の構成になったのは2000年の3月で、以来、制作環境をアップグレードしながら地道に記録を積み重ねているうちに、今ではこのサイトの総ファイル数は35,674(うちHTMLファイルは7,290)、総容量は9.66GBにまで達してしまいました。

振り返ってみると、Windows 95の登場によって一般に広く開放されたインターネット上に個人が運営するサイトが次々にオープンしていったのは1990年代の終わり頃から。そうした個人運営サイトにはたいていこのホームページはリンクフリーです(「自由にリンクして下さい」という意味だが文法的にはおかしい)とかSorry, this homepage is Japanese only.などとあえてことわるまでもない断り書きが書かれていたものですが、しばらくすると「Javaアプレットによる動的装飾(少々うるさい)」「アクセスカウンター(キリ番とか)」「相互リンク(その発展系がWebring)」「掲示板」などが一世を風靡するようになりました。特に「掲示板」による小さなコミュニティの存在は強力で、そのハブとなる人気掲示板には、毎日かかさずおはようとおやすみの挨拶をする常連さんがいたり、一見さんと常連さん、はてはサイトオーナーまで巻き込んだバトルや村八分、出入禁止などがあったりして、なんともカオス。かくいうこのサイトにもかつては掲示板が設置されており、そこでの交流からリアルなセッションにつながって今に続く貴重な山仲間の何人かを得たのですが、ご多聞にもれずこの掲示板でもときどきは小さな騒動が起こっていました。まあ、それでも今どきの「炎上」に比べると皆さん礼節はわきまえていましたが、そのように熱気を帯びた掲示板文化もブログブームの到来による個人運営サイトの淘汰と共に廃れてゆき、やがてコミュニケーションの基盤はmixi発Twitter経由でFacebookやInstagramといったSNSへ移って、今やサイトオーナーはひとりお茶をすすりながら心静かに自分の文章の推敲に取り組める時代が戻ってきたわけです。

この間、私のWEB仲間も多くが自前のサイトからブログへ移行していきましたが、HTMLのコードを自分で完全に管理したいクチの私は、ブログシステムに頼ることなく愚直にエディタを駆使しながらHTMLファイルを増殖させてきました。もっとも、この「徒然日記」に限ってはブログの方がマッチするのではないかと思わなくもなかったのですが、ある日試みにWordPressをサーバにインストールし、記事を書いてそのコードやファイル構造を見てみたところ、特に画像ファイルの処理などで統制がとれていない点がどうにもしっくりこないために、結局WordPressはアンインストール。そうした試行錯誤の結果が上述のファイル数なのですが、開設10年目時点での総容量はまだ413.2MBでしたから、その後10年間でのこのサイトの膨張ぶりがいかにすさまじいものであるかがわかります。画像ファイルの画質の向上や動画ファイルの導入がその大きな原因となっていることは確実ですが、記事自体の質量も上昇カーブを描き続けていることは間違いありません。

このペースでいけば今から10年後のこのサイトはどういうことになっているのか?と空恐ろしい気がしますが、さすがにそろそろ書きものの情熱にも打止め感が漂ってきました。そんなわけで、このサイトがいったいいつまで続くことになるのかは、(これも10年前に書いたことと同じですが)神のみぞ知るです。

新橋

2017/04/11

新橋「T-WALL」初訪問。江戸川橋や錦糸町とは異なり、こちらはボルダリング専用ジムです。

場所は新橋駅からSL広場側に徒歩7分とちょっと遠いですが、今月から通勤経路を新橋経由に変更したので、会社帰りに立ち寄るには好都合なロケーションです。

とてもきれいなジムで、値段が安くなる20時過ぎから多少混み始めましたが、まあ許容範囲。グレードの付け方は適正か、やや辛めでしょうか?辛く感じるのは下北沢の「GRAVITY」の甘いグレーディングに慣れてしまっているからかも知れませんが、それよりも久しぶりに履くクライミングシューズが足に痛いのが困りモノ。

ともあれ、平日に通えるホームジムを暫く失っていた状態でしたが、これからは暇をみてはこちらに通ってみようと思います。そうこうするうちに足もシューズに慣れてくることでしょう。

初音

2017/04/08

谷崎潤一郎『吉野葛・蘆刈』(岩波文庫)をこの日ほぼ一日で読了。谷崎潤一郎はこれまであまり馴染みがありませんでしたが、先日、能「国栖」を観たことをきっかけにその周辺を調べていて本書に到達し、Amazonでポチった次第。

岩波文庫の表紙には、次のような短い紹介文が書かれています。

終生のテーマである母性思慕の情感が、吉野の風物や伝説と溶けあい、清冽な抒情性をたたえた名作「吉野葛」は、谷崎「第二の出発点」となったもので、美しい女人への父子二代にわたる男の思慕と愛着の物語「蘆刈」とともに谷崎中期の傑作である。

この説明の通り、まず「吉野葛」は、東京に住む作家の「私」が一高時代の友人で今は大阪で旧家の若旦那におさまっている津村の誘いを受けて、上市から吉野川上流の国栖に入り、さらに南朝の後裔・自天王の旧蹟を訪ねた後に大台ヶ原から国栖へ戻る旅に出るという話で、その前半では「私」と津村とが国栖の里を目指す道中のゆかしい情景が谷崎の涼やかな美文で描写されるとともに、浄瑠璃「妹背川女庭訓」「義経千本桜」「芦屋道満大内鑑」や謡曲「二人静」への言及がなされますが、旅の第一の目的であった伝・初音の鼓を見るまでの道行的な展開から、中盤では津村による母恋いの一人語りが長々と続きます。幼い頃に失った母への思慕の情を募らせる津村は、祖母の遺品を整理している内に母が国栖の出であることを知り、ある日国栖への旅に出て存命であった母の親族に会うと共に、ゆかりのある紙漉きの娘を見かけて、そこに母の面影を認めます。今回の「私」を伴っての国栖再訪の目的は、津村にとっての「初音の鼓」であるその娘への求婚が目的だ、というのが津村の説明でした。そのために数日国栖に滞在する津村を置いて「私」は自分の目的である歴史小説の題材取材のために吉野川上流への旅を継続し、三之公谷の険路に手を焼きつつ八幡平から隠し平までへの探訪を果たした後に入の波しおのはへ下り着きます。そこで「私」を出迎えたのは、くだんの娘を後ろに連れた津村でした。

私の計劃した歴史小説は、やや材料負けの形でとうとう書けずにしまったが、この時に見た橋の上のお和佐さんが今の津村夫人であることはいうまでもない。だからあの旅行は、私よりも津村に取って上首尾を齎した訳である。

明治末から大正初頃の吉野川上流を舞台とした紀行文としての面白さと共に、津村の口を借りて語る母への思慕とその形を変えた成就がある種の健康的な明るさで描かれて、心惹かれる一編でした。

一方の「蘆刈」は、夢幻能を見るような味わいがあります。その冒頭に置かれているのは、謡曲「芦刈」やその原典とされる『大和物語』からの次の和歌。

君なくてあしかりけりと思ふにも いとど難波の浦ぞ住みうき

摂津・岡本に住む主人公は、十五夜の日に思い立って後鳥羽院の離宮・水無瀬宮があったという淀川の山崎近くで月見をすることにし、淀川の中洲に渡ると蘆の中に腰を下ろして正宗を飲みながら白居易「琵琶行」を吟じたりいにしえの江口・神崎の遊女に想いを馳せたりしていました。すると蘆が揺れる気配がし、そこにわたしの影法師のようにうずくまっている男がいて話しかけてきます。男は主人公に酒を勧め、自分も謡曲「小督」や「雨月物語」から江月照松風吹 永夜清宵何所為(原典は「証道歌」)などを吟じましたが、主人公に問われるがままにやはり一人語りに入っていきます。こちらは、男の父が「お遊さま」と呼ぶ美しい未亡人への思慕を抱きつつその妹と結婚し、妹もまた夫の姉への思いを知って夫と姉を仲立ちしようとするものの、ついに結ばれることなくお遊さまは再婚し、やがて男の父も微禄して亡くなったという話。男は幼い頃から十五夜になると父に連れられてお遊さまの住む別荘へ向かい、月見の宴に興じるお遊さまの姿を生垣越しに飽かず眺めることが習慣となっており、今もこれから向かうところだと語り終えます。

わたしはおかしなことをいうとおもってでももうお遊さんは八十ぢかいとしよりではないでしょうかとたずねたのであるがただそよそよと風が草の葉をわたるばかりで汀にいちめんに生えていたあしも見えずそのおとこの影もいつのまにか月のひかりに溶け入るようにきえてしまった。

このように謎めいた終わり方をする「蘆刈」の文体は独特で、会話に「」をつけることなく地の文に溶け込ませ、しかもひらがなを多用して朦朧とした雰囲気を醸し出しています。話の構造に夢幻能の様式を当てはめるなら、主人公はワキ、男は前シテ、男の父は後シテということになりますから、男は実は男の父のお遊さまへの思慕が姿を現したものと見るのが最も素直ですが、男の父の生前からの執心がその子に受け継がれて晴らされることなく今に続いていると見ることもできそうですし、さらに男は誰の子なのかという疑惑も含め、曖昧さの中に余韻を残しています。

主人公の旅立ち、物語の舞台の情景描写と古典を紐解いての歴史叙述、もう一人の語り手による過去への回帰とそこで語られる女性への思慕、という共通する手法を用いたこれら二編は、前者が昭和6年、後者が昭和7年に発表されたもので、この時期は谷崎が関東大震災後の関西移住から数年後、最初の妻を佐藤春夫に譲って二番目の妻と再婚したものの、一方で松子御寮人(後の松子夫人)との恋愛関係が深まり始めていた頃に当たります。特に「蘆刈」のお遊さまははっきりと松子御寮人を念頭に置いて人物造形がなされていますが、そうした作家自身の事情と共に、畿内の豊穣な歴史風土がこれらの作品を谷崎に書かせたことは疑いありません。

ちょうど来月中旬には快慶の仏像を見に奈良へ行く予定がありますので、その際に「吉野葛」の舞台となった吉野川上流域を訪問することも検討してみたいと思います。

達磨

2017/04/06

定期巡回@新橋「一由」。

いつも通り、目にも綾な料理の数々ですが、わけても筍に季節を感じます。

最初はぴりっと美丈夫あらばしり、ついで春霞で旨味を味わい、浜千鳥はスルーして、三千盛ですっきりと〆。

食後のデザートも忘れません。神田達磨の羽根付き鯛焼をかじりながら、帰路につきました(通りすがりのお姉さん、写してしまってすみません)

新生

2017/04/02

目黒区の現在の住居に住むようになったのが1996年。以来20年間、道玄坂上交番の斜め向かいにある一本桜=「道玄桜」を愛でながら暮らしてきました。

老木にも関わらず毎年派手に花を咲かせて行き交う人の目を楽しませてくれていたその道玄桜がついに老朽化のために伐採されたのが、昨年12月のこと。残念ではありましたが、命あるもの必ずいつかは後進に道を譲らなければなりません。

そして、待ちかねた後輩がやってきたのが2月28日です。まだ背も低くほっそりした若木で、堂々たる風格だった先代とは大きなギャップがありますが、これはこれで好ましい風情。新生道玄桜として認知度を高めていって下さい。

植え替えられたばかりでの開花は期待できないだろうなと思っていたのですが、3月17日に蕾が膨らんでいるのを見つけました。おお、咲いてくれるのか?以後、毎朝通勤途上での蕾チェックが日課となりました。

そして3月24日に、数輪の花が開きました。やれ嬉しや。ほかの蕾もぐんぐん大きくなっている様子です。

4月2日の日曜日、とうとう七分咲き!精一杯がんばっている様子が健気です。しかし、無事に咲いてくれたことは嬉しいものの、今年は無理して満開にせずこのへんで打ち止めにしてほしい。これから一年かけてしっかり根付いて、来春にあらためて思い切り咲いてくれればいいんだぞ。(←親バカ状態)