塾長の山行記録

塾長の山行記録

私=juqchoの登山の記録集。基本は癒し系バリエーション、四季を通じて。

広河原沢3ルンゼ / 右俣クリスマスルンゼ

日程:2014/01/11-13

概要:広河原沢3ルンゼと同左俣を狙って入山。初日は二俣にテントを設営し、トレース付け。2日目に3ルンゼを登って阿弥陀岳南稜に達し、P3基部から下降して青ナギから本谷へ戻る。3日目はラッセルの深さを忌避して右俣クリスマスルンゼに転進し、その日のうちに下山。

山頂:---

同行:かっきー

山行寸描

▲これから挑むバーティカルな滝。上の画像をクリックすると、広河原沢3ルンゼの登攀の概要が見られます。(2014/01/12撮影)
▲広河原沢右俣クリスマスルンゼ。待ち時間の長さには辟易。(2014/01/13撮影)

成人の日の三連休は、昨年末の天皇誕生日の連休に引き続いてかっきーとアルパインアイス。当初は甲斐駒ヶ岳へというプランもあったのですが、1月中旬近くなるとただのラッセルに終わる可能性が大きいために、八ヶ岳西面の広河原沢に向かうことにしました。かっきーにとっては勝手のわかっているエリアであり、私も正月にクリスマスルンゼを登っていてある程度土地勘のある場所です。

2014/01/11

△11:30 舟山十字路 → △12:45-13:40 二俣 → △14:15-20 右俣出合 → △15:00 広河原沢本谷の途中まで → △15:10 右俣出合 → △15:35 二俣

朝6時すぎに埼京線の戸田公園駅前で待ち合わせ、快晴の中央自動車道をひた走って舟山十字路に着いたのが11時すぎ。車の運転が終わったとたんに焼酎ハイボール缶をプシュッと空けるかっきーに呆れつつ身繕いをして、いつの間にか曇り出している空の下、広河原沢の奥に向かいました。

この日は左俣と本谷との二俣まで1時間ほどの行程なので、リュックサックの重さをあまり気にせずのんびり歩くだけです。

二俣に着くと既に何張りかのテントが設営されていました。我々も左俣寄りの樹林帯の入口に、私の1〜2人用テントを宿泊用、かっきーのシェルターを食堂として向かい合わせに立て、いつでも宴会開始可能な状態にしました。と言ってもさすがにこの時刻から飲み出したのではいくら食材や酒があっても足りませんし、おいしく鍋をいただくためにもここは本谷にトレースを付けに行くことにしました。

右俣出合まではあっという間で、そこからは誰の踏み跡もない本谷に先頭を交替しながら突っ込んでいきました。それにしても、この2人が山に入るとなぜいつもラッセルになるのか……。

踏み抜きに注意しながら進むこと40分で小さなゴルジュに達し、ここで私は谷底のトラバースを試みましたが、岩の側壁に新雪が不安定に着いているだけなので突破は困難でした。一方かっきーは右(左岸)から巻き上るルートにトライしたところ、こちらはうまく抜けられそう。そこまで確認したところで時刻は15時になり、この日はここまでで十分だろうとテントに戻ることにしました。

テントに戻って装備を解けば、後は宴会あるのみ。雪を溶かし、かっきー特製のつみれ鍋を煮立てて各自持参の酒で乾杯しました。やがてこの日の分の食材が尽き、日本酒2合でいい気持ちになった私は一足先にテントに移動すると、シェルターで一人飲みつつ昨年末に亡くなった大滝詠一の歌を歌い続けるかっきーの声を子守唄にして早々に眠りに落ちていきました。明日は晴れてくれますように。

2014/01/12

△06:10 二俣 → △06:45-07:05 右俣出合 → △08:40-09:00 3ルンゼ出合 → △09:20-10:20 30m大滝 → △10:30-11:30 バーティカルな滝 → △13:00-20 南稜P3基部 → △14:30 青ナギ下降点 → △15:10 広河原沢本谷 → △15:35 二俣

うっすらと明るくなりつつある6時すぎに出発。すぐに右俣出合に着きましたが、本谷方向のトレースは少し濃くなっており、我々より先に入っているパーティーがいるようです。アイゼンを装着してからその後を追うように本谷を詰めていくと、昨日の到達点である小ゴルジュの手前で男女パーティーに追いつきました。ここでアイゼンを着けている2人に挨拶をして右に巻き上がり、さてここから先はまたラッセル祭りかと思いきや、驚いたことに我々の前にさらに踏み跡が続いていました。

小さい氷瀑を越え、次の氷瀑は先行のトレースに従って左から巻き上り、その先に出て来る胎内潜りをすんなりくぐると、前方に高くP3が聳えているのが見えてきました。沢筋が右手にいったん下り、正面の開けたルンゼの氷瀑は無視して左手の狭い沢筋にかかる小氷瀑を登ると、はっきり両岸が迫るようになった沢筋はぐんぐん高度を上げていきます。

我々も決して遅いスピードではないと思うのに、先行のトレースの主に追いつく気配がまったくありません。しかも、どうやら先行のクライマーは単独、それもよほど体重が軽い様子で、同じ踏み跡を踏んでも我々では雪に潜ってしまって半ラッセル状態が続きます。

くねくねと曲がる沢筋をどこまでも登っていくと、正面に顕著な氷柱が見えてきました。これが1ルンゼと2ルンゼの出合で、目指す3ルンゼはその手前の右側に小さい入口を覗かせており、先行のトレースは真っすぐそちらへ向かっていました。ここでいったんリュックサックを置いて行動食をとりながらさらにギアを取り出しているところへ、後続の男女パーティーも追いついてきました。ここから男女パーティーと前後するように3ルンゼの中に入っていきましたが、相変わらずさらさらの深雪に足をとられてなかなか行程がはかどりません。特に男女パーティーのうちの女性の方が身体を引き上げるのに苦労しているうちに、我々が先に30m大滝の下に達することができました。

……では、僭越ながら私がリードさせていただきます。

チリ雪崩が頻発している3段の大滝の下でロープを結び、まずは1段目。先行のソロは左端の階段状を登っているようでしたが、私が選んだのはその少し中央寄りの凹角です。柔らかい氷質のこの滝はアックスもアイゼンもばっちり決まり、おかげで傾斜が変わる出だしに1本スクリューを決めただけで不安なく上に抜けることができました。続いて傾斜が緩やかになった棚状のパートをラッセルして2段目への2mほどの段差にかかりましたが、こちらは氷がかなり堅く、少々緊張しながら越えることになりました。さらに少しロープを伸ばしたところで右岸の大きな氷塊にスクリュー2本で支点を作り、かっきーを迎えます。

本来ならナメ滝になっているであろうその先を引き続きラッセルしてロープを伸ばしていったかっきーの姿が斜面の向こうに消え、ややあってビレイ解除のコールが掛かりました。後を追って登っていくとそこは二俣になっていて、先行ソロの踏み跡はP4に通じる左俣へ向かっており、かっきーは正面奥の85度の氷瀑の足元でビレイしていました。なるほど、これを登るのか。

足元が雪に埋もれた氷瀑は高さ6mほどに見えますが、なかなかに立っています。そしてまずはかっきーがリードでの突破にトライ。微妙に傾斜が緩い滝の中央から取り付いて右寄りのきれいな垂壁に乗り込んでいきましたが、アックスにテンションをかけながらであってもリュックサックを背負ったままでは厳しく、いったん降りて空身になって再チャレンジしたものの、既に氷に力を吸い取られてしまった前腕ではスクリュー2本をねじ込むのが精いっぱいでした。

選手交替。追いついてきた男女パーティーが見守る中、2段ロケットの2段目となった私も空身になり、かっきーのビレイでまずは2本目のスクリューまではトップロープ状態で到達すると、ここから真のリードとなります。幸い氷質は良くアックスもアイゼンもしっかり決まってくれて、気が付くとスクリューは足の下。そのままさらに身体を引き上げ、落ち口で角度が変わるところでは打ち込んだアックスで割れたことでできた氷のスタンスに安定した姿勢で立つことができました。本当ならここで1本スクリューを入れておくべきだったでしょうが、気持ちにゆとりがない私はそのままアックスを滝の上面に打ち込み、強引に乗り越してしまいました。これは後から考えれば非常に危ない場面で、足を蹴り込んだ場所(氷)が私の体重を支えられずに崩壊すればそのままグラウンドフォールだったかもしれず、そうなれば行動不能になる程度の怪我を負っていた可能性もありました。要反省です。

ともあれ落ち口から数m上がった氷の斜面にスクリュー2本で支点を作り、後続のかっきーをビレイ。かっきーも空荷で登りきり、さらにロープの端にくくりつけたリュックサック二つを引き上げて直瀑突破成功です。その先にも小さな氷瀑が見えていますが、足元がつらら状で体重を支えられそうにないため、右手の凍った草付斜面から巻き上がることにしました。一見寝ているように見えるこの斜面も登ってみると際どい急斜面でしたが、かっきーのリードで安定した位置まで達することができて、ようやく一息つきました。

ここからは、3ルンゼの右手の尾根を深い雪と格闘しながらひたすら登ります。もしかすると適当なところでルンゼに戻った方がはかどったのかもしれませんが、P3の岩峰を見上げながら登る尾根筋の展望も捨てがたく、ときに腰までのラッセルにぼやきながらもぐいぐいと高度を上げてひたすら南稜を目指しました。

1時間余りのアルバイトの末、雪とハイマツの尾根が大きく左へ弧を描いて、そのままP3の基部に到達しました。大変ではありましたが、周囲の山々の見事な展望がここまでの苦労をねぎらってくれて気分の良いフィナーレです。

強風に巻かれながらアイスギアを片付け、権現岳や富士山を正面に見ながら南稜の下降にかかりました。P2からP1の間ではこの日に南稜を登ってきてここに幕営するらしいパーティーとすれ違いましたが、そうしたパーティーはこの後も続々と登ってきていて、この日の南稜は大賑わいでした。天気予報では明日の午前中は天気が悪そうなのですが……。

南稜の途中から振り返った阿弥陀岳の右奥には、赤岳の肩に天狗尾根の大天狗が見えています。お目にかかったことはないものの、かっきーの友人で数年前の冬にあそこで生命の火を吹き消されたというたかやんのために合掌しました。

青ナギの途中から、背丈の低い木の幹に巻き付けられたピンクのテープを目印に下降を開始しました。

これは南稜から広河原沢本谷へスピーディーに下れるルートで、途中には開けた斜面や古いテープが点在していましたが、最後は沢筋の右岸の樹林の中を急下降して右俣出合のほんのすぐ下流にぽんと飛び出しました。

ここから二俣のテントまではあっという間です。この日の3ルンゼはほとんどラッセルに終始したとは言うものの、歯ごたえのある氷瀑も越えて稜線に達した満足感は大きく、この日の鍋と酒の味は格別でした。

2014/01/13

△07:30 二俣 → △08:05 右俣出合 → △08:45-12:30 クリスマスルンゼ → △12:45-50 右俣出合 → △13:10-50 二俣 → △14:35 舟山十字路

2日目は広河原沢左俣に向かうというのが当初の計画でしたが、前日のラッセルの様子からすると労多くして益少なしということになりそうです。それなら右俣のクリスマスルンゼでお茶を濁して帰ろうと前夜のうちに話がまとまり、朝はのんびり目となりました。

それでも前日より30分遅れで起床したのですが、ガスに包まれた空模様にどうにもモチベーションが上がらず、シュラフで二度寝するうちに7時になってしまいました。とはいうものの隣の大テントのパーティーも出掛ける準備をしているし、いつまでも寝ているわけにもいかないので、無理に自分たちを鼓舞し準備を整えて出発しました。

右俣に入って小さな氷瀑を二つ越えると、やがて前方に記憶に新しいクリスマスルンゼの氷瀑が現れました。下段に取り付いているのは男性2人。もっと混んでいるかと思っていたので、これはラッキー!……というのは勘違いだったことは、後でわかります。

2人組の先行が下段中央を越えていき、やがてセカンドが登ろうとするタイミングでリードの私が下段右側に取り付きましたが、登りながら2人組のセカンドに「お2人だけですか?」と尋ねたところ「上に2人います」との答。えっ、3人組だったのか?緩傾斜部に達してみると、確かに左岸の木の根にセルフビレイをとっている2人のクライマーの姿が見えました。私も同じところにスリングを掛けさせてもらってかっきーを迎え入れましたが、ここからの上段の滝の待機時間が長かった!先行パーティーは気のいい人たちでしたが、まず1人がダブルロープを引いてリードで登り、スクリューで支点を作るとロワーダウンで下降。ついで2人目が残置されたスクリューを使いながらリードし、またまたロワーダウン。そして3人目はトップロープで登るといった具合で、スリングにぶら下がったまま1時間強もの間じっと待つしかなく、そうこうするうちに体温は下がり、指先も冷たくなってしまいました。それでもどうにか順番が巡ってきてかっきーが勇躍リードで取り付きましたが、階段状の中央凹角は易しいながら冷たい指先への血の巡りを悪くさせ、急傾斜部を抜けたところで指先が痺れたかっきーは両腕をぶんぶん振り回していました。

セカンドで登った私は少し上流に入った木に残置されているスリングにロープをセットして懸垂下降の態勢に入ろうとしましたが、我々の後に登ってきてやはり長い待機時間を過ごしていた男性2人パーティーが上段の滝を登り始めていたのでそのラインへ懸垂下降するわけにもいかず、スリングが設置された右岸の木のところまで際どいトラバースをして、ここから懸垂下降2ピッチで下界へ戻りました。

二俣に戻る頃には天気は回復していましたが、あたりのテントはどこも撤収モードです。我々もさっさとテントやシェルターを片付け、歩きやすい道をどんどん下りながら振り返ると阿弥陀岳が青空の下に大きく、3ルンゼとその右の長大な尾根の様子もはっきりと見てとることができました。次にここへ来たときは、今回敬遠することになった左俣やクリスマスルンゼの前を抜けていく右俣を稜線まで登り通したいものです。

下山してから定番の「もみの湯」で身体を温め、甲府のとんかつ屋「美味小家」でとんかつをいただきました。

ソースや塩での味付け無用のおいしい(でも量がちょっと少ない)イベリコ豚に舌鼓を打ち、その後は不気味なまでに車が少ない中央自動車道で家路を急ぎました。それにしても、3ルンゼの先行ソロは凄かった。あの深雪を軽々と駆け抜け、後続の我々に気配をまったく見せてくれませんでした。いったい何者だったのだろう?