富士山御中道

山頂  
分類 関東周辺
日程 2015/09/12-13
同行  
概要 富士宮口の宝永山荘を起点に時計回りで御中道一周。一日目は大沢崩を越えて富士スバルライン五合目まで。二日目は残り半分。

富士宮口を起点に御中道一周。一日目は快晴、二日目は最後に暴風雨。(2015/09/12-13撮影)

この週末は、今年のシャモニー旅行無事終了のお礼参りに富士山へ。毎年と同様、ヨーロッパクライミングの事前トレーニングとして富士山に登らせてもらっているからですが、今回はいつもの吉田口ルートでの山頂往復ではなく、前々から気になっていた御中道一周にトライすることにしました。御中道巡りは明治以前から富士講信者によって実践されていた行で、北麓の吉田で富士浅間神社に参ってから六合目経ヶ岳に上がり、そこから時計回りに小御岳までを一泊二日で歩いたものだそうです。登頂経験が3回以上なければ御中道を巡ることは許されなかったと言いますから登頂以上の大行とされていたことになりますが、標高2,500mから2,800mの間を上下しながら一周25kmを歩き通すことの大変さは今も昔も変わりがありません。

さて、車を持っていない私としてはアプローチを公共交通機関の力に頼ることになるわけですが、最難所の大沢崩を明るい時間帯に通過するという一点に絞ってコースプランを検討した結果、新幹線で新富士に出てそこからバスで富士宮口新五合目に上がり、一日目は大沢崩を越えて富士スバルライン五合目までとして、二日目に残りの半分を歩くという計画にしました。初日をゆっくり目に出てこの日は宝永山荘泊まりとし、翌日にワンデイで一気に一周するという計画も十分に成り立ちますが、帰りのバスの便がないこととこの週末の天気予報が土曜日晴れ、日曜日は昼頃に雨と告げていたために、こちらのプランは却下です。

そんなわけで、東海道新幹線の「こだま」の車窓から富士山を眺め、さらに新富士駅からのバスでは富士山本宮浅間大社に立ち寄って清冽な湧水の霊気に触れてから、富士宮口新五合目まで上がりました。

2015/09/12

■10:45 富士宮口新五合目 ■11:00 宝永山荘 ■12:15 主杖流し

富士宮口新五合目への道路はマイカー規制が終了した直後で、駐車場からあふれた車が路肩に列を作って駐まっていましたが、それでも交通整理が出てくれていたおかげで、バスは定刻前に新五合目に着いてくれました。

富士山の登山口としては一番高いところにあるこの富士宮口からは、山頂が間近に見上げられます。お天道様の機嫌も良好そうで、登山最盛期とさして変わらないほどに登山者が群れをなし、列を作っていました。

こちらの登山口の開設期間は9月10日までなので、宝永山荘の横の登山道入口には一応「通行禁止」の掲示がなされていましたが、ここを右から回り込めば普通に登山道に入ることができます。歩きやすいジグザグ道を登ると左手に宝永山、眼下に宝永山荘、そしてその向こうから右手に駿河湾が広がっていました。

こちらからの御中道の入口はどこかと言えば、六合目の小屋跡からだと事前の情報でつかんでいましたが、その「六合目の小屋跡」というのがどういう状態かさっぱりわかりません。しかし、きょろきょろしながら道を登り続けている内になんとなく広場状に開けた場所が出てきて、そこから登山道の左にブル道も伸びている模様。高さ的にもこのへんだろうと見当をつけて、人目を気にしつつブル道に入りました。

水平に伸びるブル道のどん詰まりには白い標識が立っており、そこからは細いながらも明瞭な踏み跡が続いていました。これは間違いない!と勇躍して踏み跡に足を踏み入れましたが、随所にペンキ印が残されていて予想外に道は明瞭です。しかし、かなり早い段階でこの踏み跡の上方50メートルくらいのところに岩の道標らしきものが見えていましたから、御中道は元来もっと高いところを通っていたのかも知れません。

ところどころに出てくる灰色の溶岩の滑床や尾根をたやすく越え、さらに表大沢を渡ったところでは真新しく感じる「お中道」の道標を見つけました。そこから先も、砂礫の斜面、小さなブッシュ、そして溶岩の沢筋がところどころに出てきます。

やがて箱荒沢第2のあたりで先行していた男女四人組に追いつきましたが、挨拶がてら行き先を聞いてみたところ、主杖流しから山頂に向かうとのこと。ヴァリエーションルートながらそこそこ人を迎えているという主杖流しルートは、私もいずれ登ってみたい自然の登路です。

立入禁止の小さな立て札の横を抜けてさらに進んだところで、両岸を樹林に囲まれた明瞭な溶岩の沢筋に出ました。これが主杖流しです。下界に通じる溶岩の滑床を見下ろしてかつての噴火時の猛威を想像してから目を上流に転じてみると、そこには黄色いペンキではっきりと「主杖」と書かれていました。

御中道巡りにおいては、この主杖流しからのルートどりが一つのポイントになります。それはこの先に出てくる大沢崩をどこから渡るかという問題と直結していて、さらに富士山の植生の特徴とも密接に絡みます。どういうことかと言うと、富士山の東側は砂走りに代表されるように砂礫の斜面が卓越していますが、西側は森林限界が高く標高2,800mくらいまで達しています。そして江戸時代に拓かれた御中道は、こちら側ではこの森林限界の上をかすめるようにトラバースし、大沢崩も同標高あたりを渡っていました。これが「一ノ越」と呼ばれる越場なのですが、大沢崩の崩壊が進むにつれて一ノ越を渡ることはできなくなり、このために明治後半からは標高2,300mあたりに「二ノ越」が設けられました。その後もしばらくは旧来の一ノ越に向かう森林限界上の道をトラバースして大沢崩にぶつかってから二ノ越まで下るルートが採用されていたのですが、昭和に入ってからは一ノ越道の途中から緩やかに二ノ越の標高まで下る道が樹林の中に設けられ、さらに後には富士宮口登山道の西からすぐに一ノ越道と別れて標高の低いところをまっすぐに二ノ越に向かうラインも引かれたようです。

……というところまでは事前のリサーチでわかっていたのですが、それでも主杖流しの対岸(右岸)のやや下流寄りにペンキや赤テープの目印を見つけて、いったんはそちらを目指しました。しかし、樹林帯の中を徐々に標高を下げてゆくこの道筋は「違う」とすぐに気づき、いったん主杖流しまで戻ってそのまま溶岩の沢筋を上流へ進むと、なんとなくここだろうという高さに左手の樹林帯の中へ導こうとするペンキマークが現れました。なぜそこまでして一ノ越道(標高2,800m前後)にこだわったかと言うと、二ノ越道に比べての展望の良さや歩きやすさもさることながら、大沢崩の前に現れる不動沢の横断は上流であるほど容易になるということがわかっていたからです。

主杖流しを離れて樹林の中の踏み跡をしばらく進むと人工物が目に入りましたが、その先で踏み跡が見当たらなくなってしまいました。しかし上述のように、自分が辿ろうとしている道が森林限界の上だということがわかっていれば、「迷ったときは上」という基本行動を維持すれば良いだけのことです。

赤い砂礫の中の灰色の溶岩流跡は、鬼が沢。ここも岩の上にペンキ印があって渡る場所に迷う気遣いはありません。

赤茶けた桜沢の横断地点にも明瞭な踏み跡がありましたが、ふと見上げるとずいぶん高いところに目印となるペンキの丸印が描かれていました。あれが正しい一ノ越道だとしたら、あんなに高いところを渡っていたのか……。

やがてぶつかった不動沢は沢床に降りるのが少々難しそうでしたが、ここでも上流を見れば容易に渡れそうな箇所があり、ペンキ印も目に入りました。なるほど、桜沢横断時に見掛けた目印からならあの渡河点まで水平の歩きですんだわけだな。

巨大なスノーバー風の鉄材が赤錆びているのを横目に先に進むと、疎らな樹林の向こうに岩の尾根筋が見えてきました。あれが大沢崩左岸尾根です。

■14:10-20 大沢崩左岸 ■15:45-55 三ノ越 ■16:25-35 お助け小屋

ほぼ予定していた時刻に、大沢崩に到達しました。いいペースです。

大沢崩の左岸尾根には小ぶり(高さ数メートル)ながら顕著な岩塔があり、その横に立って大沢崩を見下ろしました。なるほど、これは凄まじい崩壊!写真ではその大きさがまったく伝わりませんが、下流から上流のほとんど山頂測候所近くまで山体をえぐる大沢崩の迫力には、誰しも圧倒されるものを感じるでしょう。ここがかつての一ノ越のはずですが、今となってはとても渡れそうにありません。かつてはこちらの左岸に不動岩というのが立っていたそうですが、昭和45年には大沢崩に飲み込まれてしまったのだとか。

見上げている間にも、音をたてて崩落が進んでいました。恐ろしい……。

ここで軽く昼食休憩としてから、大沢崩の左岸を下りました。一ノ越は標高2,800m、二ノ越は2,300mですが、この日大沢崩を渡ろうとしているのは調査工事が行われている場所で、かつては三ノ越が通っていたところ。二ノ越からそこまでさらに200-300m下降するのだとすれば、ここから三ノ越まで一気に標高差700-800m下ることになります。

最初は疎林の中、やがてシャクナゲの下に獣道とも人の踏み跡ともつかない細く交錯したトレイルを辿りながら、ぐんぐん高度を下げていきます。

体感としてずいぶん下ったところでぶつかったのが、このモノレール。この辺りまで来ると、大沢崩の中で工事をする人たちの声も聞こえるようになってきました。モノレールにぶつかったら右ではなく左(下降方向)へどこまでも下っていけばよいのですが、大沢崩の様子を覗いてみたい私は途中でモノレールを離れて樹林の斜面をずるずると下りました。しかし、こちらにもどうにか踏み跡のようなものが続いており、やがて再びモノレールに行き当たってそのまま大沢崩への下降点に到達しました。

下降点にある鉄パイプで組んだ階段には、これは工事用の階段なので事故があっても責任は負いません的な看板がぶら下げてありました。それはもちろん覚悟の上なのでチェーンをまたいで階段を下り、大沢崩の底に立ちました。

大沢崩もこのあたりまで下ると穏やかな様相で、特に不安を感じることなく対岸へ渡ることができます。

対岸にもモノレールや工事用の仮設階段が設置されており、これらを適当に辿って大沢崩右岸の尾根に上がります。

こちらの尾根筋は樹林が疎らで、癒し系の登り。右に開けたところからは、大沢崩左岸の崩壊崖を眺めて自分がどれほど高度を下げてきたかを目視することもできました。

やがて現れたのが大沢休憩所、通称「お助け小屋」です。ここは本来は二ノ越の右岸側ということになるのですが、今は工事期間中の工事関係者の立寄り場所になっているようです。小屋の外には御中道の由来や歴史、大沢崩が生じた原因と工事の概況などを解説するパネルが掲示されていて、つい見入ってしまいました。

click

なるほど、御中道はこういう歴史を秘めていたのか……。

ここまで来れば難所はもうありません。あとは富士スバルライン五合目までの整備された歩道を歩くだけです。

■17:55 御庭 ■18:30 富士スバルライン五合目

お助け小屋から富士スバルライン五合目までの道は、通常の登山地図にも赤線の登山道として記されており、今では単に「御中道」と言えばこの区間(だけ)をさすようです。

一番沢、仏石流し、滑沢といった沢筋を横断し、さらに進むと樹林の中に小さな建物跡を見掛けましたが、なかなかこの日のゴールに辿り着きません。アップダウンはさほどないながらも、歩いている内に徐々に疲労が蓄積してきました。

やがて日が傾いて、夕景となりました。雲海の向こうに頭を出している南アルプスの彼方に日が沈み、振り返ると円盤を積み重ねたような雲や富士山の円錐形が赤く染まっていました。

廃屋と化した御庭山荘。ここからは石畳の続く幅広い道が続いており、やがて前方遠くに小御岳が見えてきました。

どうにかぎりぎり、ヘッドランプの世話にならずに富士スバルライン五合目に着くことができました。実はこの時期、このあたりの施設の営業終了は早いだろうと思い込んでいたのですが、手近の雲上閣のレストランはなんと21時まで営業しています。それなら利用しない手はないだろうと、生ビールと唐揚げ定食で豪勢な夕食としました。

小御岳神社に御中道巡りの前半を無事歩き通せたことのお礼と明日の安全を祈願してお参りし、その後は「Lounge」と表示された休憩所に場所を移しました。

ここは御来光に合わせて出発時刻を調整する登山者たちの待機所になっているようで、大勢の登山者が椅子に座って談笑したり仮眠をとったりしていました。私も隅っこに場所を確保してマットを敷き、シュラフを広げて眠ることにしましたが、ここが開いていてくれて本当に助かりました。一応野宿も想定してツェルトを持参してはいたのですが、夜半には強い風の音が鳴り響いていましたから、屋外で寝ていたら少々辛い目に遭っていたに違いありません。

2015/09/13

■04:50 富士スバルライン五合目 ■06:50 瀬戸館

午前4時に目を覚ますと、休憩所の客層は精悍な登山者たちからキャピキャピの女子大生軍団に入れ替わっていてびっくり。それでもごそごそと起き上がってシュラフを畳み、お湯を沸かしてカップヌードルの朝食をとりました。ちなみに調理に使った水は下界からPETボトルで担ぎ上げたものですが、富士スバルライン五合目にいくつかある自動販売機ではお茶やスポーツドリンクは売っているものの単なる水は売っていなかったので、こうして水をキープしておいたのは正解でした。

夜明け前の富士山のシルエットはくっきり。そして、何度見ても御来光の神々しさには感動します。早出して山頂での御来光を目指した人たちも、その苦労は十分に報われたことでしょう。

泉ヶ滝から斜めに上がる道に入り、経ヶ岳の上の六合に出てみると、御来光を飽かず眺めていたと思われる登山者たちが佇んでいました。この時点ではこの日も(少なくともゴールインまでは)好天に恵まれると信じて疑っていなかったのですが、その予想はしばらく後にあっさり覆されることになります。

六合から南東方向へ緩やかに上がる登山道は本来下山用のもので、それだけに意外に登りがきつく歩みはゆっくりしたものになります。そしてこの先、御中道は岩尾根を回り込んだところから登山道を離れるはずなのですが、その入口が見つからなかったために下山道のジグザグを少し登り、最初の折り返しから砂礫の斜面に入りました。踏み跡の薄さに「ルートを外したか?」と少々不安になりましたが、やがて小さな涸れ沢を渡るところでやや下ると、はっきりした踏み跡が下の方を通っているのを発見できました。ここから先は、迷う恐れのない、明瞭な道が南へ向かっています。

砂礫の斜面はやがて草付や小灌木の樹林帯に変わりますが、道ははっきりと踏まれ、樹木は切り開かれている上に、赤テープやペンキマークも要所に残されていました。

沢筋にもご覧の通り、白ペンキでの矢印があって迷う恐れはありません。やがて前方に須走口登山道上の瀬戸館が姿を現しましたが、この頃から山頂を白く動きの早いガスが覆うようになってきました。うーん、不穏な……。

比較的新しい鳥居が立て掛けられた溶岩洞窟の御胎内は、入口を覗いてみただけ。よほど身を縮めないと中に入れそうにありません。そしてそこからすぐに、既に閉鎖された瀬戸館の前に出ました。山頂からはひっきりなしに雲が降りてきており、どうやら好天はもう諦めなければならないようです。

瀬戸館の前を通って、再び斜面の中の道を進みます。須走口の下山道を横断するあたりは石にペンキマークが施されており、さらに踏み跡も残されていて引き続き迷う気遣いはありません。それにしても、どうも踏み跡が新しいなと思ったら、途中のブル道でブルドーザーの轍の上に踏み跡が残っていましたから、おそらくこの踏み跡の主は昨日ここを渡ったものと思われます。

溶岩沢床にあった「中道」のマーク。そして柱の立った場所にある人工物はどうやら、山頂の富士山測候所へ電力を供給するための地中埋設ケーブルの中継施設であるようです。

露岩に黄色い両方向の矢印と目玉のような白ペンキを見つけたら、御殿場口登山道はすぐそこ。登山道にぶつかったらいったん斜めに登って、最初の折り返しのところに立っている木柱を目印に再び斜面の横断にかかります。しかし、この頃には周囲ははっきりガスに覆われ、冷たい風と共に徐々に雨粒が吹き付けてくるようになってきました。

砂礫の斜面上の明瞭な踏み跡の上を、靴の中に侵入する砂粒の不快感と戦いながら歩き続けて、ついに大砂走りの御殿場口下山道に突き当たりました。

■08:10 プリンスルート分岐 ■08:50-09:10 宝永山荘 ■09:20 富士宮口新五合目

大砂走りから先へも御中道道は続いているそうなのですが、もうこのあたりでは完全に荒れ模様。悪い視界の中で強い風雨に打たれるようになっており、こうなったら後は普通に登山道を歩くことにしようと決断しました。

富士宮口から宝永山を経て隣の御殿場口登山道へ接続する斜めの道は、2008年に皇太子が採用したルートであることから「プリンスルート」と呼ばれています。大砂走りを少し登ったところで標識を見つけ、このプリンスルートを逆に富士宮口へ向かうことにしました。

この道は宝永山の手前で「馬の背」と呼ばれる尾根上を通ることになるのですが、ここで猛烈な風につかまってしまいました。ガスのためにほとんど視界がない中、ほとんど間をおかずに連続的に吹き付ける風の強さは尋常ではなく、ぐっと腰を落として確実に足を踏み出さなければ身体を持っていかれそうになるほど。体重の軽い女性や子供だったら、本当に吹き飛ばされたかも知れません。命の危険すら感じながら馬の背を渡りきって宝永火口の中に下ってゆくと、ようやく風が収まり多少視界も広がってきました。すり鉢状の火口は風の流れを複雑なものにし、雨滴がぐるぐると宙を舞っているのがよく見えます。そんな中をこれから登ろうとする登山者(複数)とすれ違いましたが、いずれも「上の方もこんな感じですか?」と質問してきて、その度に私からは「こんなものではありませんよ」と答えました。

オンタデの黄葉の祝福を受けて、雨の中を宝永山荘に到着。これでやっと、御中道一周が終わったことになります。やれやれ、この日の行程は楽勝だと思っていたのに、最後にひどい目に会いました。

靴はぐしょぐしょ、ズボンもびしょ濡れ。すっかり冷え切ってしまった身体を暖めるために山荘の中に入り、お汁粉をいただいて少し人心地ついてから、最後のひと頑張りで富士宮口新五合目へ下山しました。

今回、公共交通機関の利用を前提としたために一泊二日行程での御中道巡りとなりましたが、もし車で未明の内に富士宮口新五合目に上がることができるなら、ワンデイで一周することも決して難しくはないでしょう。実際にそうして1日行程での御中道巡りを果たしている方の記録は少なくないのですが、今回の自分の御中道巡りに際してはもっぱらむらちゃんさんの「むらちゃんブログ」を参考にしました。このブログの中の2012年9月の一ノ越道と二ノ越道の2週連続御中道巡りが、とりわけ豊富な写真と詳細な解説で今回の山行(一ノ越道)の参考になり、ポイントになる情報をブログの記事から手元の地図に転記して今回の御中道巡りに臨んだほど。ここにその旨を記して、感謝の意を表します。