塾長の山行記録

塾長の山行記録

私=juqchoの登山の記録集。基本は癒し系バリエーション、四季を通じて。

蝶ヶ岳(敗退)

日程:1999/01/15-16

概要:蝶ヶ岳を目指して上高地に入り、徳沢園の冬期小屋泊。翌日横尾まで進むがトレースがなく深い新雪に登頂を断念、往路を引き返して下山。

山頂:---

同行:---

山行寸描

▲横尾から見上げる屏風の頭。(1999/01/16撮影)

1999/01/15

△08:25 中の湯(釜トンネル入口) → △09:30-35 大正池 → △10:35-45 上高地 → △14:20 徳沢

夜行で松本に着き、待合室で時間をつぶしてから始発の松本電鉄で新島々へ。さらに、ここからタクシーで中の湯へ。ゲートの前では多くの登山者が身繕いをしており、その群れに混じって釜トンネルに入りました。意外に傾斜のきついトンネル内は照明がついていて迷うことはなく、じきに出口に到達して少し歩いたところから左手に焼岳を望むようになります。道は雪に覆われているものの、登山者の踏み跡のおかげで苦労もなく上高地まで歩くことができました。ただし、4日分の食料と2リットルの水、それにテントを除く冬山装備一式を詰め込んだリュックサックの重みが肩にくい込み痛いくらいです。

小梨平でワカンを装着し、雪が降りしきる中を夏道通しにひたすら歩きます。スノーシューやスキーで入っている登山者も多く、そのスピードはうらやましいほどでした。

徳沢園の冬期小屋は年末年始を除き素泊まりのみですが、とても愛想の良い若い小屋番さんとやたらに吠える黒い犬が出迎えてくれる、薪ストーブがうれしい小屋です。小屋番さんやテント泊の客らに蝶ヶ岳への道の様子を聞くと、大学生が大量に入山した年末年始は日帰りも可能だったもののここ数日の雪でトレースは完全に消えており、横尾方面はラッセルがきついとのこと。よって、明朝の他の登山者の動向も窺いながら横尾まで進むか長塀尾根を上がるか決めることとしました。一応の作戦が立ったところで自炊室で食事をとっていたところ、単独行の同宿者が備付けのノートの中にエベレストの大量遭難で亡くなった難波康子さんの書き込みを発見。見れば、1990年2月に御主人ほかとここに連泊されていたのでした。

1999/01/16

△08:00 徳沢園 → △10:20-40 横尾 → △12:20-40 徳沢 → △15:05-15 上高地 → △15:50 大正池 → △16:35 中の湯

薄曇りの下、昨日小屋でルートを話し合ったテント泊の単独行者や4人パーティーの後を追って横尾方面へ進みました。新村橋を過ぎてしばらくしたところに小さなデブリがあり、ここでいったん夏道(といっても完全に雪の下)を離れて雪に覆われた河原に降りましたが、しばらく行くと単独行者が引き返してくるのに出会いました。彼の話によると、先にトレースがなく少人数のラッセルでは登頂は無理なので長塀ルートが間に合うようであればそちらからに切り替えるとのこと。自分はとにかく横尾まで行ってみると伝え、互いの無事を祈り合って別れました。雪の中の狭くなった流れに沿ってしばらく遡上してから夏道に戻ってみるとかすかにつぼ足での足跡が残っており、そのかすれ具合からして昨日か今朝早くに一人で横尾を目指したものと見えました。

この足跡に導かれるようにしてなんとか横尾までは辿り着きましたが、足跡の主は避難小屋に荷をデポして涸沢方面へ向かっており、蝶ヶ岳へはまったくトレースされていませんでした。やがてこちらが河原ルートをとった間に追い抜いた4人組が後からやってきましたが、彼らも年配の上にごく軽装で稜線上に泊る様子ではなさそう。そんなこんなでここから先の行動を断念し、徳沢へ戻ることにしました。

元来た道を徳沢園に戻って中の湯から松本へのバスを電話で予約し、コーヒーをごちそうになってから、雪が本降りになった梓川沿いの道を下りました。