奈良 西大寺展

2017/06/11

三井記念美術館で開催中の「奈良西大寺展」へ足を運びました。

西大寺はその名の通り、平城京にあって東大寺と相対する位置=平城宮の西北に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の平定を祈願して造立された金銅四天王像を安置する寺院として、天平神護元年(765年)に建立された寺院です。仲麻呂の政敵であり孝謙上皇が寵愛した僧・道鏡の影響下に、密教系の仏像を含む驚くほど多数の仏像を安置する大伽藍が営まれましたが、平安時代に一時衰微し堂宇の多くを失います。しかし鎌倉時代に入り、中興の祖とされる叡尊によって復興され、真言律宗の総本山として各地の寺院を傘下に収めました。室町時代の火災で大きな被害を受けたため、現在の西大寺の伽藍はすべて江戸時代以降の再建ですが、鎌倉時代の仏像の多くが西大寺及び真言律宗に属する各寺院に今日まで伝えられています。

この展覧会は、そうした西大寺の歴史を大きく「西大寺の創建」「叡尊をめぐる信仰の美術」「真言律宗の発展と一門の名宝」として紹介しようとするものですが、三井記念美術館ではレイアウトの都合か美術館側の考えによるものか、こうした歴史を順に追う展示方法は採用せず、時代を一部シャッフルしながら展示室ごとに固有の性格を持たせる展示の仕方をしていました。

展示室1:密教と修法具
最初の展示室は、金剛杵を中心とする密教法具の数々を展示。
金剛盤の上に五鈷鈴、独鈷杵、三鈷杵、五鈷杵を並べたものが数組ありましたが、中でもその妙なる音から「鈴虫」という銘を持つ一具は、光明真言会で長老が導師を務める際に大檀上に安置される特別な法具。
展示室2:戒律と舎利信仰
次の展示室は、小さい空間にこの《金銅透彫舎利容器》〈国宝〉ひとつだけ。しかし、その存在感は圧倒的です。銅製鍍金、火焔宝珠を戴き透彫りの羽目金具で囲んだ外容器の内側に塔鋺形の内容器を収めており、本来その中にあった舎利数粒を収めた蓮台形舎利容器も展示されていました。蕨手の先には垂飾、欄間の下にも瓔珞を下げ、下部は花菱紋の高欄の下に龍や牡丹、竜胆などの花々をあしらう唐草文が透彫りで表されて、その工芸技術の精妙さには思わずため息が漏れてしまいます。鎌倉時代の作とされ、もとは大安寺(南都七大寺のひとつ)にあったものが後に西大寺に移されたものとされていますが、至徳2年(1385年)の大安寺大火の後に再造されたという説もあるそうです。
展示室3:西大寺の瓦と塼
創建期の軒瓦や垂木先瓦、緑釉・褐釉塼。軒丸瓦には単弁蓮華文、軒平瓦には美しいカーブを描く唐草文が浮き出し、どことなくオリエントな雰囲気を漂わせていました。
また、展示室3と展示室5の間に織田有楽斎の茶室「如庵」(現在は犬山市)を写した茶席があり、叡尊が八幡神社に献茶をした余服を参拝者に振る舞った事に由来するという西大寺の大茶盛式に用いる大茶碗が展示されていました。
展示室4:西大寺の創建から平安時代まで / 叡尊の信仰と鎌倉時代の復興
この展示室では、奈良時代から平安時代までと鎌倉時代の叡尊による復興後との二つの時代の寺宝が同居します。
《金光明最勝王経 巻6》(天平宝字6年(762年))〈国宝〉。仁王経、法華経と共に護国三部経とされ、国王がこの経をよく受持・読誦すれば四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神がその国を擁護し災難などを除くという四天王護国思想を説き、西大寺創建の思想的背景ともなりました。そうした歴史的位置づけを抜きにして美術品として見ても、その書体の美しさは比類なきものです。ところどころに白・朱書されているのは平安時代に施された訓読点や注記で、国語学の資料としても貴重。
《塔本四仏坐像のうち釈迦如来坐像・阿弥陀如来坐像》〈重文〉は木心乾漆造で、表面の一部に木屎漆(漆に細かい植物繊維を混ぜてペースト状にしたもの)を用いて整形しているところがいかにも奈良時代。西大寺創建の後に建立された東西いずれかの塔に安置されていたと伝えられます。一方《十二天像のうち閻魔天像・水天像》〈国宝〉は絹本着色で縦160cm・横135cmの大きなもの。展示されていたのはこれら二天ですが、9世紀の作ながら十二天すべてが今日に伝わっている点が貴重です。
続いて、同じ展示室の奥から左側にかけては時代が下って鎌倉時代。創建直後に称徳天皇と道鏡という庇護者を失い、続いて都が平安京に移されて寺勢を失って衰退していた西大寺に文暦2年(1235年)に入った叡尊(1201-1290)は、伝統的な律宗の教えと高野山で学んできた真言密教とを組み合わせ「密律兼修の道場」として西大寺を再興しました。ここではまず、興正菩薩という諡号を贈られた叡尊の80歳のとき(弘安3年)の姿を写す《興正菩薩坐像》が強くインパクトを見る者に与えます。昨年国宝指定を受けたこの木像は金属質を感じさせる黒々とした光沢を帯び、長く垂れた眉毛や丸く立派な鼻、きりっと結んだ口、そして毅然と背を伸ばした姿に威厳があり、額の皺や手の甲に浮かぶ血管はあくまで写実的。作者は当時活躍した善派の仏師・善春で、その出来栄えは見事と言うしかありません。
自分としては最も期待していたのは《文殊菩薩坐像》(正安4年(1302年))〈重文〉です。中国五台山の文殊信仰に基づく渡海文殊様式のこの像は、四侍者像のうち善財童子と最勝老人の二体の立像を東京に引き連れて来ていましたが、そのノーブルな顔立ちと華やかな衣冠の組合せによって快慶の手になる安倍文殊院の《文殊師利菩薩像》を連想させます。また、善春作《聖徳太子立像(孝養像)》(文永5年(1268年))〈重文〉は太子16歳のとき父・用明天皇の病気平癒を祈る姿ですが、像高120cm弱ながらきりっとした立ち姿には気品が漂います。胎内納入物によって、この像は5千人近い道俗貴賎の結縁者を集めて造立したものであることがわかっています。
叡尊の活動の理念は「興法利生」、すなわち「興隆仏法」は仏教を盛んにするために戒律を復興し釈迦如来の仏教に立ち返ること(舎利信仰)、そして「利益衆生」はとりわけ非人と呼ばれて差別されていた人々を文殊菩薩の化身として救済する事業へと展開しました。日本に仏教を広めた聖徳太子や救済活動の先人としての行基を叡尊は信仰しましたが、いずれも文殊菩薩との関わりがあります。この文殊菩薩信仰は先に文殊菩薩に帰依していた弟子の忍性からの影響によるものですが、さらに密教系の愛染明王への信仰をももって叡尊は数多くの仏像や工芸品の制作に結びつけています。この展覧会の前期では西大寺愛染堂に祀られる善円作・秘仏本尊《愛染明王坐像》〈重文〉が展示されていたのですが、あいにくこの日は東京での展覧会の最終日にあたり、《愛染明王坐像》を拝むことはできませんでした。しかしそれは織り込み済みで、あえてこの日を選んだのは、後期だけの展示となっている浄瑠璃寺の《吉祥天立像》(後述)の方を拝見したかったからです。
展示室5:戒律と舎利信仰
叡尊が主導した戒律回帰は自身による菩薩戒授戒97,710人という数字につながりましたが、この展示室では、既に展示室2で見た《金銅透彫舎利容器》と同じく数々の舎利容器が展示されました。たとえば《金銅火焔宝珠形舎利容器》〈重文〉は応永21年(1414年)の作品ですが、そこには叡尊が伊勢において感得した舎利を納めていると寺伝に伝えられています。宝珠部分は水晶、その他は金銅で、この過剰なまでの装飾性は室町時代の舎利容器の特徴とのこと。
展示室6:西大寺の伽藍配置
ぽつんと展示されているのは《西大寺伽藍絵図》〈重文〉。江戸時代に描かれた想像図で、この展覧会にも出展されていた創建当初の財産目録である《西大寺資財流記帳》(鎌倉〜室町時代の書写)の記録を参照しているものの、面積などを過大表示している模様。とは言え、実際の西大寺の往時の伽藍は薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮麗なもので、それらの堂宇には鏡で荘厳された中に膨大な数の仏像が安置され、経典が描き出す世界観が再現されていたそうです。
展示室7:真言律宗一山の名宝 / 忍性と東国の真言律宗
最後の展示室には、現在、元興寺、浄瑠璃寺、岩船寺、不退寺、海龍王寺、般若寺、白毫寺、宝山寺など関西を中心に多くの寺院が真言律宗に帰属しています。そうした寺院から招来された仏像群の中でも白眉となったのが、京都・浄瑠璃寺の秘仏である《吉祥天立像》(建暦2年(1212年))〈重文〉でした。像高90cmとやや小ぶりですが、彩色の鮮やかさには目を瞠ります。左手に宝珠、右手は与願印。ふっくらとした顔立ちと穏やかな表情が美しく装身具も華麗で、この一体だけが拝観者を近付けないようにガードされていたのも頷けます。なお、この吉祥天が金光明経に説かれる守護尊の一人であることは上述した通りです。
他にも、奈良・不空院の《不空羂索観音坐像》や京都・岩船寺の《普賢菩薩騎象像》、奈良・白毫寺の《太山王坐像》〈いずれも重文〉などが居並び、最後に叡尊の弟子であり鎌倉に開いた極楽寺を拠点として東国における真言律宗の拡大に務めた忍性にんしょうゆかりの像を並べて、展示を終えていました。

今年は西大寺創建1250年。創建時に近い仏像で今日まで遺されているのは、上に見た塔本四仏と、創建の契機となった金銅四天王像の台座にある邪鬼にとどまり、今となってはかつての大伽藍に出現した地上の仏教世界のあり様を偲ぶよすがもないのは少々残念です。とはいえ、ここでは鎌倉中期の仏教美術工芸の優品の数々をじっくりと鑑賞することができ、たいへん満足度の高い貴重な展覧会でした。

この記事を書くにあたって叡尊について調べてみたら、嘉禎2年(1236年)に「東大寺で自誓受戒」とありました。東大寺はもちろん、鑑真によって戒壇院が設けられて以来、公的に僧を認証するための授戒センターであったはずですからこれは不思議……と思ったのですが、平安末期から鎌倉初期にかけてはすでに戒師の存在なく、あえて自誓受戒を求める動きがあったそうです。

忍性についても、面白い記述がありました。Wikipediaで忍性の略歴を読むと、叡尊の教団に身を投じて10数年の後、建長4年(1252年)に30代半ばで布教のため関東に下った忍性は常陸三村寺を拠点として徐々に名を顕し、数年の後についに鎌倉進出を果たしたと記されていますが、常陸での活躍について当時常総地域に広がっていた内海の舟運を利用しつつ布教活動を行い、鎌倉進出の地歩を固めるとありました。

この内海こそ、香取神宮参拝の際にその存在を学んだ「香取海」のことに違いありません。