特別展「茶の湯」

2017/04/27

ひと月ほど前に樂焼のコレクションを集めた「茶碗の中の宇宙」を見ましたが、今回はより幅広く茶道美術の歴史を見渡す「茶の湯」展を見に、東京国立博物館に足を運びました。展覧会主旨は、次の通り。

12世紀頃、中国で学んだ禅僧によってもたらされた宋時代の新しい喫茶法は、次第に禅宗寺院や武家など日本の高貴な人々の間に浸透していきました。彼らは中国の美術品である「唐物」を用いて茶を喫すること、また室内を飾ることでステイタスを示します。その後、16世紀(安土桃山時代)になると、唐物に加えて、日常に使われているもののなかから自分の好みに合った道具をとりあわせる「侘茶」が千利休により大成されて、茶の湯は天下人から大名、町衆へより広く普及していきました。このように、日本において茶を喫するという行為は長い年月をかけて発展し、固有の文化にまで高められてきたのです。

本展覧会は、おもに室町時代から近代まで、「茶の湯」の美術の変遷を大規模に展観するものです。「茶の湯」をテーマにこれほどの名品が一堂に会する展覧会は、昭和55年(1980)に東京国立博物館で開催された「茶の美術」展以来、実に37年ぶりとなります。各時代を象徴する名品を通じて、それらに寄り添った人々の心の軌跡、そして次代に伝えるべき日本の美の粋をご覧ください。

第一章 足利将軍家の茶湯—唐物荘厳と唐物数寄
12世紀頃、中国の宋からもたらされた点茶(抹茶)という新しい喫茶法が、次第に日本の禅宗寺院や武家のあいだで広まりをみせます。彼らは中国の美術品である「唐物」をこぞって集めて室内を飾り、それらを用いて茶を喫することで自らのステイタスを示しました。そして室町時代、15世紀頃には、足利将軍家には最高級の唐物が集められ、鋭い鑑識眼による分類、評価がなされるようになります。この唐物を愛でる「唐物数寄」の価値観は、のちの「茶の湯」に大きな影響を及ぼすことになるのです。
足利将軍家のコレクション「東山御物」の中から、まずは牧谿の筆になる水墨画《観音猿鶴図》〈国宝〉で心を静め、《古銅三具足》〈重文〉の精緻、《青磁下蕪花入》〈国宝〉の優美を愛でたところで、いきなり出てきたのが《油滴変目》《曜変天目 稲葉天目》〈いずれも国宝〉の二つの茶碗(南宋・建窯)。前者は金の縁どりをしたすっきりしたシェイプの茶碗の内外に名前の通り油滴のような光沢をもつ小さい斑点が無数に散っているもので触れがたい高貴さを感じさせますが、次に見た後者にはまさに圧倒されました。
青みを帯びた茶碗の内側にいくつかの星団を作って散らばる大小の斑文は青を中心とする玉虫色の輝きがブラックホールの周囲に重力場の力を光に変えて広がっているように燐光を放ち、そこに宇宙空間が捉えられているかのようです。この曜変天目茶碗がどうしてこのような紋様を持つようになったのか、またそれは偶然の産物なのか意図したものなのかは明らかになっていないようですが、現在完存する曜変天目は世界に3点しかなく、そのすべてが日本にあって国宝とされているそうです。中でもこの《稲葉天目》は徳川家光が春日局に下賜したことから稲葉家に伝わったためにこの名があるそうですが、現存する曜変天目茶碗の中でも最高の物とされています。
油滴天目と曜変天目の二つにいきなり度肝を抜かれて腑抜けになった状態で、次のコーナーへ。
第二章 侘茶の誕生—心にかなうもの
15世紀末になると、新たな時代の担い手となる町衆が急速に力をつけ、連歌や能、茶、花、香などを楽しみ、究めるようになります。そうしたなか、珠光(1423-1502)や「下京茶の湯者」と呼ばれる人々のあいだでは、唐物を珍重するだけではなく、日常の道具のなかからも好みに合ったものを取りあわせる新しい風潮が生まれました。この「侘茶」の精神は、武野紹鷗(1502-1555)ら次の世代へ広がり、深められていきます。
戦国武将や豪商が収集を競ったであろう唐物茶入や唐物茶壺が並ぶ一方で、侘茶の流行と共に唐絵に替わって掲げられるようになった禅僧(蘭渓道隆、無学祖元ら)の禅林墨跡や素朴な高麗茶碗がこのコーナーでは取り上げられます。特に高麗茶碗は、前コーナーの国宝茶碗のような華麗さはないものの一碗ごとに独特の個性があり、それぞれになんとも言えない味わいが感じられました。
第三章 侘茶の大成—千利休とその時代
安土桃山時代、侘茶を継承した千利休(1522-1591)によって茶の湯はついに天下人から大名、町衆へと、より広く深く浸透することになりました。天下人、豊臣秀吉の茶頭となった利休は、珠光以来の伝統を受け継いで、唐物に比肩する侘茶の道具を見い出しただけでなく、新たな道具を創り出し、それらを取りあわせることで茶の湯の世界に新しい風を吹き込んだのです。
ここではまず伝長谷川等伯筆《千利休像》〈重文〉と利休の死に因縁のある《山門供養偈》を置いて、利休にまつわる道具について「利休がとりあげたもの」「利休が創造したもの」に分けて展示し、ついで古田織部、織田有楽斎、細川三斎に言及しています。「利休がとりあげたもの」としては各種墨跡の名品や唐物、高麗物の優品がありますが、「創造したもの」である樂焼の茶碗の数々はここでも存在感を発揮しています。土の色をそのままに示す赤樂茶碗「無一物」、四角い口がアヴァンギャルドな黒樂茶碗「ムキ栗」(「茶碗の中の宇宙」では京都会場のみの出展でした)、漆黒の「俊寛」〈いずれも重文〉など。また古来の「名物」に対して侘数寄の立場から論評を加える《山上宗二記》も展示されていましたが、解説によればその中ではかつて曜変・油滴に対して下位にあるとされた灰被天目や黄天目の価値が逆転するなど、「当世」の強固な審美眼が示されているそう。一方、利休後ではやはり古田織部の、ダリのぐにゃりと曲がった時計を連想させる柔らかに破調な黒織部茶碗の数々が異彩を放ちます。無作為を追求した利休の高弟でありながらまったくの対極にあるこの造形感覚は、これもまた既成感覚にとらわれない数寄の茶の一つの姿であるようです。
第四章 古典復興—小堀遠州と松平不昧の茶
江戸時代、太平の世において茶の湯は変化の時代を迎えます。小堀遠州(1579-1647)を中心として室町時代以来の武家の茶を復興する動きや、千利休の精神を継承して家元を確立する動き、さらに公家の雅な世界をとり入れて新しい風潮を創ろうとする動きなどが生じ、それらが相互に影響を及ぼしあっていきました。
「きれいさび」と呼ばれる新しい武家の茶を興した小堀遠州にまつわる茶道具として瀟洒な瀬戸茶入が並び、一方、茶湯道具の体系的な蒐集に力を注いだ松江藩第七代藩主・不昧公(1751-1818)の名器として《油滴天目》はじめ各種茶碗、恐ろしく派手でモダンな《大菊蒔絵棗》が展示されていました。さらに、このコーナーには江戸期の豪商である鴻池家や三井家の名品も置かれ、特に《粉引茶碗 三好粉引》〈重文〉の明るい肌合いと特徴的な模様が目を引きましたが、同時に両家が表千家のパトロンとして千家を支えた功績にも目配りしています。
第五章 新たな創造—近代数寄者の眼
幕末から明治維新の混乱期には、寺院や旧家から宝物や名品が世の中に放出されました。そうした時期に、平瀬露香(亀之助/亀之輔、1839-1908)、藤田香雪(伝三郎、1841-1912)、益田鈍翁(孝、1848-1938)、原三溪(富太郎、1868-1939)ら名だたる実業家たちはすぐれた眼で第一級の茶道具をとりあげ、伝統を重んじつつ、新しい価値観で新しい時代の茶の湯を創りあげていきました。
ここでも各種茶碗が並び眼福となりましたが、目を引いたのは益田鈍翁が所持していたという《蓮華残片》(東大寺三月堂不空羂索観音持物)でした。違う会期で展示される原三渓所持の《蓮華》(同)と一具であったと考えられており、茶席においてこれを床に飾った彼らは、仏教美術を茶湯道具に積極的に取り入れたそうです。しかし、そんな大事なものを個人が所持していてよかったのか?廃仏毀釈の余波だったのでしょうか。

会場の順路途中の映像コーナーでは、一切の無駄を省いた二畳の極小空間を煤で燻された土壁で囲う千利休の茶室「待庵」の映像が映写されており、かたや別のコーナーには古田織部が創意工夫を凝らして亭主を引き立てる誂えとした「燕庵」の実物大の模型が設けられていました。この二つを見比べれば、利休と織部の感性が真逆のものであることがよくわかります。

名品の数々の圧倒的な物量にへとへとになって階段室に出たところで見かけたのが、このミニジオラマシリーズ「茶室」です。松平不昧の道具蒐集は松江藩の財政に深刻なダメージを与えたようですが、この程度ならお道具を全部揃えてもたいした費えにはならないでしょう。

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