老女 / 名取ノ老女

2016/03/25

国立能楽堂の特別企画公演で、毛越寺の延年「老女」、能「名取ノ老女」。

この公演は「復興と文化 特別編」と題されて、東日本大震災から5年を迎えるこの月に東北・名取を舞台にした廃絶曲「名取ノ老女」を復活上演するという企画です。

見所に入ってみると、舞台の奥に幔幕が張られていて驚きました。白抜きにされた紋は後で調べてみると「茗荷紋」で、天台系寺院の常行堂に護法神として祀られる摩多羅神のシンボル。藤原氏とも所縁のある紋だそうで、平泉・毛越寺は9世紀に摩多羅神を唐から持ち帰った慈覚大師円仁による開山でもあれば、奥州藤原氏二代目基衡の寺でもありますし、今でも毛越寺では摩多羅神を祭る二十日夜祭が正月十四日から二十日にかけて行われているのだとか。

老女

というわけで、毛越寺からやってきたのは能の先行芸能とされる延年の演目のひとつ「老女」です。長命の老女が人生への感謝と将来の平安を神に祈って舞う……というものだそうですが、開演の時刻になって正先に僧侶によって黒塗りの経机が運ばれても、まずは解説から始まるのだろうと思い込んでいたので、幔幕の端からいきなり老女(に扮した僧?)が登場したのには驚いてしまいました。その出で立ちは、白髪の下に黒い老女面、羊歯紋を散らした白い水干に薄茶の袴。どんどんと足を鳴らしながら正先に進み、座して合掌を三度。髪を撫で付けるような所作はそこに鏡があるかのようですが、やがて経机の上に置かれた鈴を杓文字の形(?)につないだものと鮮やかな赤金の扇を手にとり、再び合掌を繰り返してからあたりを見回しつつ立ち上がります。と言ってもその姿は相変わらず深く腰を曲げたままで、その姿勢で身を翻すと、ひきつったような動きで鈴を高く、あるいは低く捧げ鳴らしつつ、テレマークスキーのように足を前後に開いてぴょんぴょんと前進。これを正面へ、右へ、後方へ、そして左へと四方に向かって行ったのですが、黒式尉を思わせる面や鈴ノ段のごとき所作は、三番叟を連想させました。この間約10分、見所はあっけにとられたように静まり返っており、咳をすることもためらわれる緊迫感でしたが、老女は何事もなかったかのように鈴と扇を経机の上に戻すと、いざり跳びで背後の幔幕へ消えていってしまいました。

……今のは何だったんだ?という空気の中に今度こそ解説のお二人=小田幸子氏と小林健二氏が登場して、どうやら張り詰めていた空気が弛緩しました。お二人の話をかいつまんで紹介すると、次のよう。

  • チラシやパンフレットの阿弥陀様の絵は京都にある檀王法林寺の「熊野権現影向図」で、熊野権現の本地仏である阿弥陀如来が現れた様子だが、これが「名取ノ老女」の熊野詣で。四十八回の参詣を果たそうとしたものの残り一回というところで高齢のため断念しそうになったところに、神木である梛の葉(裏表紙にも描かれたつやつやの緑の葉)に虫食いによって書かれた神詠が届き、一念発起して輿に乗り参詣したところ。これが奇跡のその一。
  • 奇跡のその二は熊野権現の使いとして飛んでくる護法善神の登場で、こうした種類の能には稀曲の「谷行」や「檀風」「生贄」といった曲があるが、この神は大きな存在と人間との仲介役となって、ひたぶるの個人の祈りに対し希望を伝える役目を担う。
  • 今回の復曲にあたっては、原曲である観世元頼本に対して次の変更を加え上演台本とした。
    • クリ・サシ・クセを原曲から変更して「熊野の本地」とした。
    • 原曲になかった名取の名所教えを加えた。
    • 将来への希望を示す存在として孫娘を登場させた。

最後に、今日はシテの梅若玄祥が体調不良で、詞章を一部省略したり床几に掛かったりというところが出てくるが、ご了解を…‥と案内があって、解説が締めくくられました。

名取ノ老女

休憩の間に幔幕がなくなって舞台上は常の姿を取り戻し、次第の囃子の内に山伏出立で右手に扇、左手に数珠の熊野山伏(殿田謙吉師)が登場して常座に立ち、松に向かって山また山の行く末や、雲路ぞしるべなるらん。松島平泉一見の暇乞いに熊野本宮に通夜をしたところ霊夢があり、名取の里に向かうところであると説明して、柔らかな美声で東路を名取に向かう短い上歌を謡った後、着ゼリフとなって名取の老女を探そうとする旨が語られました。ついで厳しいヒシギからテンポを落とした大小、そしてしみじみとどこまでも長く尾を引く笛(竹市学師の肺活量!)。オレンジ色の小袖にポニーテールも可愛い孫娘を先に立て、その肩に手をかけて登場したのは名取の老女(梅若玄祥師)です。白洲正子さん所蔵の老女面を復元したという面を掛け、麻布のような風合いの水衣の下にオレンジの縫箔、そして細竹ではなく本当に身体を預けられる太い木の杖を手に舞台に進みました。やはり体調不良は本当だったのか、と杖をつく姿は思わせましたが、それでも一セイいづくにも、あがめば神は宿りきて、御かげを拝む、あらたさよは朗々と謡われ、そしてこれこそは、この曲の主題であろうと思われます。

孫娘との掛合いで名取川に雪解け水がほとばしる早春の情景を謡った老女が常座で床几に掛かったところで、老女の自分語りであるサシから下歌・上歌までが一気に省略され、後見の「ばば」というキューを受けて孫娘が婆さま、わらはは花を摘んで参りませうと歌舞伎の子方のような台詞を子供らしい声で語りました。正先で蝶を追う孫娘の姿を見て山伏が呼び掛け、ここで山伏は目指す名取の老女と対面することになります。問答の中で山伏は老女に、自分がみた霊夢の説明を行います。それによると、通夜の夢の中で山伏は、名取の老女という巫かんなぎが年老いて参ることができなくなったのでこれを届けろと熊野権現に命じられ(……と袖から白紙に包んだ梛の葉を取り出し)、そこに虫食いの御歌があったので、ありがたく思ってはるばる届けにきたのだ、とのこと。梛の葉は一度は山伏から常座の老女に手渡されましたが、ありがたいことではあるものの、老眼のために読むことができないので代わりに読んでほしいと求められて、山伏は葉を受け取り、読み聞かせることにしました。

道遠し年もやうやう老いにけり 思ひおこせよ我も忘れじ

この歌をしみじみと繰り返して謡った老女に対し、山伏はその志が神慮にかなってご神詠を賜わったことをめで、葉を老女に再び手渡しました。神慮のありがたさを歌う老女と山伏の掛合いの後、老女は背後にぴたっと貼り付いていた後見に梛の葉を渡し、立ち上がります。ここでげにや末世と言ひながら……から始まる初同となりますが、美しい節付けで謡われる地謡の上歌は神々しいばかり。これを聴きつつ老女が杖をつきながら舞台を回って、名取の名所教えとなります。老女は自分が勧請した三熊野にお参りするよう山伏を誘い、孫娘を含む三人でまず脇柱方面を見やって高舘山=本宮、ついで笛柱の方の野原は新宮、と説明すれば、山伏もあらやさしの景色やなと感嘆する様子。揚幕の彼方にある滝は那智になぞらえられて、老女はいかにも自慢げですが、山伏が中正面方向の景色に目を留めて、あれは名取川?それなら(と正面を見やり)川下に見える浜の名は?と問うと、あれこそ那智の本尊・観音様が打ち上げられたという閑上ゆりあげの浜だと説明しました。郷土愛満載の老女の説明の中に三熊野の有様が再現されている名取の地の様子を見た山伏は下居し、三人揃って合掌。あら殊勝や、まことに三熊野の有様まのあたりに拝まれ候ふよと感極まった様子で、見所もぐっと感情移入させられる名場面となりました。

ここで孫娘の誘い台詞があり、クリ・サシ・クセと続く熊野の本地の物語となります。インドのマガダ国の国王に1000人の妃がいたところ、末の妃に初めて懐妊が訪れ、これを妬んだ999人の妃たちが武士に命じてその妃を山深くで首を刎ねさせた。ところが(と説得力のある地謡)死骸は朽ちずに無事に王子を産み、首のない母の乳で育ったところ、3歳のときに虫食いの詠に導かれて叔父の上人が見出して麓の寺で養育し、7歳のときに父王と対面すると母の妃も蘇生した。父王はこのような憂き世を疎み、万里を翔る飛車に乗って(正中で床几に掛かったままの老女はここで杖を前にかまえ)東をさして飛んでいったところ、程なく我が国の紀伊の国に熊野権現となって現れた、というのが熊野の本地で、恐ろしい話だ……とあっけにとられている内に山伏の勧めによって法楽の舞に移りました。まずは物着のアシライの内に後見座で老女は上衣を脱ぎ、薄い紺の地に金の模様の長絹、金の烏帽子の姿に変わりました(この間に、大役を果たした孫娘は切戸口から下がっていきました)。

再び正中の床几に掛かった老女は、右手に榊、左手に杖。謹上再拝。仰ぎ願はくは……と榊を振りながらノットを朗々と謡った老女でしたが、太鼓が入って神楽舞になってもなかなか立ち上がらず、囃子に合わせて床几に掛かったまま時折どんどんと足拍子を踏みました。まさか、老女は心の中だけで舞うつもりなのか?とハラハラしていたら、しばらくしてようやく立ち上がり、杖にすがりながら榊を振って足拍子を聞かせると、常座へ移りました。徐々に力を取り戻してきた老女の姿にほっとしていると、揚幕が音もなく半分ほど巻き上げられて、護法善神が下居した姿で暗がりの中から老女を眺めている様子が窺えました。杖を手にしたままの老女がさすがに疲れ、シテ柱にもたれかかって立ち尽くしていると、ついに幕が全開となり、護法善神は素早く橋掛リを進んで一ノ松に達し、欄干に足を掛け、あたかも老女の姿を覆い尽くすようなエネルギッシュな存在感を示しました。その姿は、紅白の段の厚板に緑の半切、面は「鷹」、手に幣帛。驚いた山伏の問い掛けに、熊野権現の使者であると名乗った護法善神は、シテがゆっくり笛前に移ったのを見極めて一気に舞台に進み、きびきびと舞台上を廻りながら地謡との勇壮な掛合いで熊野への往還の守護となる自らの役目を語ると、舞働となって気合の足拍子や鋭い回転、さらに力強く膝をつく所作を見せました。

最後は、護法善神による老女への祝福。老女の子々孫々に至るまで、その願いはことごとく成就するであろうとのありがたい御託宣を下し、老女の頭上に御幣をかざした護法善神は、役目を終えて三ノ松まで一気に下がると、いったんそこに立ち止まって御幣を背後に投げ捨て、合掌した山伏と老女とが見送る内にゆっくりと揚幕の中へ消えていきました。

実に盛りだくさんで面白い曲でした。梅若玄祥師の体調不良のため、同師が企図した通りの演出にはならなかったのですが、地謡陣と囃子方の気迫と護法善神の躍動、さらには熊野山伏と孫娘が老女と共に形作る祈りの静謐が、シテの不調を十分に補っていたと感じました。しかもパンフレットの中で玄祥師はもともと様々な場所、色々な流儀の方々で、今回とは違った「名取の老女」が引き続き上演され続けることを願いますと記していたのですから、それは些細なことなのかも知れません。それよりも何よりも、全編を通じて、老女の深い信仰心(祈り)と、参詣がかなわなくなった老女のもとに熊野権現が護法善神を遣わすことでその信仰心が世代を超えて報われてゆくという希望に満ちたストーリーに、深い感動を覚えました。師の言葉通り、「名取ノ老女」が今後さらに上演の機会を得ることを期待したいですし、さらには、かくも篤い信仰の対象となる熊野を訪れてみたいと強く思いました。

「名取ノ老女」の初出記録は、寛正5年(1464)の糺河原勧進猿楽での音阿弥による上演記事。江戸時代には宝生流だけが上演を続けていたものの、明治時代に廃曲とされたそう。1993年、「梅若六郎の会」で曲名「護法」として復曲されたときは、台本を大胆に省略し、老女と山伏を狂言方が、護法をシテ方が担当するというものだったそうです。

「熊野の本地」は、熊野権現の縁起を本地物形式を以て語った中世物語。本地垂迹説は、日本の神々が本地は仏・菩薩であり、衆生救済のために姿を変えて垂迹したものという考え方ですが、「熊野の本地」ではその間に人間としての時代があったことになり、それが上述の通り天竺摩迦陀国の善財王です。熊野比丘尼によって流布したこの説話の内容は、本曲の詞章と少し異なり、王子は母・五衰殿女御が処刑される直前に生まれ、母は蘇生してはおらず、王は王子・聖と共に飛車に乗って日本へ渡って熊野の神々として垂迹したというものです。

宮城県名取市は仙台のすぐ南にあり、熊野三山と同様の配置で三社が勧請されていることは上述の通りですが、 観光案内を読んでいて目を引いたのは、ここに中将藤原実方朝臣の墓があるということ。

藤原実方(???-999年)は光源氏のモデルの一人とされ、清少納言とも親密であったと言われていますが、有名な逸話は一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという狼藉を働いたことから、天皇に「歌枕見てまいれ」と言われたというものです。ここで言う歌枕は、まだ所在がわかっていない阿古耶の松のことであり、すなわち「歌枕見てまいれ」とは奥州への左遷の宣告。そして赴任の数年後に、実方は不慮の死を遂げることになりますが、後年、西行は二度目の奥州下りに際して実方の墓に立ち寄って朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて 枯れ野のすすき形見にぞ見るとの歌を詠み、一方、西行の跡を追って奥の細道に足跡をとどめた芭蕉も名取を通っているものの墓参りは果たせず笠嶋はいづこさ月のぬかり道の句を残しています。

配役

毛越寺の延年「老女」 藤里明久
 
能「名取ノ老女」 名取ノ老女 梅若玄祥
護法善神 宝生和英
孫娘 松山絢美
熊野山伏 殿田謙吉
主後見 赤松禎友
地頭 観世喜正
竹市学
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 國川純
太鼓 小寺真佐人

あらすじ

老女

白髪かつらに老女面、水干に袴をつけ、鈴と中啓を手に舞う。先ず仏前にぬかづき三拝し、自らの白髪を梳り、身辺を整え、中啓鈴を取り、立ちよろぼいながらも尚矍鑠たる様を示し舞う。

名取ノ老女

熊野三山の山伏が陸奥行脚の暇乞いのため本宮に通夜したところ、名取の里に住む老巫女に神託を届けよとの霊夢を蒙る。老女はかつて熊野に年詣でしていたが、今年は年老いて詣でることができず、名取の地に熊野三山を勧請して祈りを捧げている者だった。山伏は名取の里で老女に対面を果たし、霊夢で授けられた虫食いのある梛の葉を渡す。そこには熊野の神詠「道遠し年もやうやう老いにけり思ひおこせよ我も忘れじ」とあり、あまりの有難さに老女は随喜の涙を流す。老女は勧請した熊野三山に山伏を案内し、「熊野の本地」を物語る。そして法楽の舞を始めると、熊野権現の使役神・護法善神が現れて、老女を祝福、国土安穏を約束して去って行く。