エリック・サティとその時代展

2015/08/30

日曜日の午前をのんびり過ごして、昼になってからBunkamuraのザ・ミュージアムへ足を運びました。この日の展示は「エリック・サティとその時代展」です。

エリック・サティ(1866-1925)のピアノ曲の代表的なものは私もCDを持って聞いていますが、正直にいえば「3つのジムノペディ 第一番」「3つのグノシエンヌ 第一番」と「ジュ・トゥ・ヴー」といった曲以外はあまり印象が残っていませんでした。しかし、実は「ジムノペディ」はサティの21歳頃の作品ですし「グノシエンヌ」はその2年後、「ジュ・トゥ・ヴー」を作曲したのも31歳頃。59歳で亡くなる前年まで創作を続けたサティの業績の全体を知るには、こうした初期のピアノ曲だけでは足りません。そこでこの展覧会は、サティが交流した様々な芸術家たちの作品を通じて作曲家サティの生涯を振り返ろうという、一風変わった企画です。

1. モンマルトルでの第一歩
パリ音楽院で「怠惰な生徒」と評価され、兵役を終えた後に21歳でモンマルトルに住み始めたサティの活動の場は、キャバレー「シャ・ノワール」でした。このコーナーでまず紹介されるのは、当時のモンマルトルの雰囲気を写すポスター群。ロートレックのおなじみの《ムーラン・ルージュ》《ディヴァン・ジャポネ》やジュール・シェレの官能的な《フォリー・ベルジュール、ロイ・フラー》、さらには作風も様々(少女漫画風から幻想的なものまで)なイラストが表紙を飾るシャンソンの楽譜が、当時の雰囲気を伝えます。サティは上述のピアノ曲の作曲のかたわら、「シャ・ノワール」の人気演目であるアンリ・リヴィエールの影絵劇の伴奏の指揮とハーモニウム(リード・オルガン)演奏を担当していましたが、この頃のサティのハンサムな横顔を「シャ・ノワール」のレターヘッドのある紙に黒鉛で手早く描いた《エリック・サティの肖像》も展示されていました。その作者はミゲル・ユトリロ。モーリス・ユトリロの法律上の父(実父は不明)で、モーリスの母である画家シュザンヌ・ヴァラドンはミゲルからサティへと心移りをしたものの、その関係は半年間で破綻してしまったそうです。
2. 秘教的なサティ
ジョゼファン・ペラダンが創設した象徴主義・秘教主義芸術運動である「薔薇十字聖堂騎士団」にサティも「聖歌隊長」として参画しますが、熱狂的なワーグナー信者であったペラダンの期待にサティが迎合するはずもなく、やがて会則の一つである純潔にも違反します。それが、上記のシュザンヌ・ヴァラドンとの短期間に終わった生涯唯一の恋で、このコーナーでは薔薇十字会ゆかりのポスター等の他、サティ自身が五線譜にインクで描いた達者なイラスト風のシュザンヌの肖像画が展示されていましたが、強い意志を思わせる眉と目、すっきり通った鼻筋、唇をきっと結んだ表情には、モンマルトルの丘でもっとも有名な人物の一人だったと言われるにふさわしい存在感が漂っていました。
3. アルクイユに移って
シュザンヌとの恋が終わり、モンマルトルからパリ郊外のアルクイユの「4本の煙突がある家」に移り住んだ後も、サティの毎日モンマルトルの丘の下にあるカフェ・コンセールに通ってシャンソンの作曲と演奏をしていました。有名な「ジュ・トゥ・ヴー」はこの頃に作曲された作品で、大きな成功を収めます。しかし、キャバレーの音楽家としての数年間の暮らしの後、サティは40歳を前にしてスコラ・カントルム音楽学校に入学し、対位法や作曲を学び直します。それまでのトレードマークであったベルベットのスーツを山高帽・付け襟・杖に変えたサティーは、ドビュッシーの友情やラヴェルからの敬意に囲まれながら、旺盛な創作意欲の下に多数のピアノ曲を生み出しますが、ここでとりわけ大きなスペースをもって紹介されたのは、サティの楽譜とシャルル・マルタンの水彩画をセットにした楽譜集《スポーツと気晴らし》でした。1914年に作曲されたピアノのためのごく短い曲が21のエピソードを構成し、楽譜にはサティ自身による風変わりな台詞が添えられ、その楽譜とそれぞれに対をなして美しいカラー図版が配されています。自筆楽譜の音符の筆致も絵画的ですが、面白いと思ったのは楽譜に調号や拍子記号の記載がなく、♯や♭は一音一音に対して指定されていること。これは、サティの作風の特徴である調性からの解放がもたらした独特の記譜法です。また、マルタンの水彩画は構図も色使いもとてもモダンで洗練されており、星新一の作品の挿絵でよく知られる真鍋博の作風を連想しました。なお展示会場の最後には、この《スポーツと気晴らし》の楽譜・水彩画を見ながらピアノ演奏と台詞を聞く映像作品が上映されていましたが、曲と台詞のユーモラスな写実性が楽しいものでした。
4. モンパルナスのモダニズム
パリの芸術活動の中心がセーヌ川右岸のモンマルトルから左岸のモンパルナスへ移った1910年代後半、モンパルナス人脈のジャン・コクトー(脚本)、パブロ・ピカソ(美術)らと取り組んだプロジェクトが、ディアギレフのバレエ・リュスによって1917年に上演された「パラード」です。ここではピカソによる衣装のデッサンや公演プログラムの表紙が展示されていた他、「パラード」の再現上演(2007年)の映像も見ることができましたが、中国風奇術師、アクロバット、セーラー服の少女、馬、ロボット風マネージャーらが意味の汲みとれないダンスを展開する舞台は、ある意味衝撃的でした。さらに、フランシス・ピカビアの台本・美術とサティの音楽によるサティ最晩年のバレエ「本日休演」の楽譜の口絵(ピカビアによる)が展示されていましたが、それはこの展覧会のフライヤーの表面に採用されたイラストです。
5. サティの受容
1921年にニューヨークからパリへやってきた画家、彫刻家、写真家のマン・レイによるオブジェがこのコーナーの中心ですが、マン・レイもまたサティにオマージュを捧げた芸術家であり、サティを「眼を持った唯一の音楽家」と評しています。そのマン・レイが撮影した写真《エリック・サティの肖像》(1925年)は、穏やかな笑みをたたえた最晩年のサティの姿を捉えているのですが、本展ではそのマン・レイの写真をパステルで見事に再現・カラー化したニック・カドワースの作品(1976年)が展示されていました。

教会旋法を取り入れ調性の軛を解き放った革新的な作曲技法や、「家具の音楽」と称する環境音楽の発想、同旋律反復のミニマル・ミュージックの先駆としての役割への言及はなく、したがってサティがなぜ分野を超えて同時代の芸術家の尊敬を集め、さらには音楽史上に独自の地位を占めるに至ったかはこの展覧会の中では明らかにされていませんでした。その点が少々残念な気もするものの、展覧会のタイトルにもあるように、サティを媒介にして19世紀末から20世紀初頭のパリの芸術的雰囲気を再現するという切り口なのだと理解すれば、これはこれで斬新かつ面白い展覧会でした。