高野山の声明 / 高野物狂

2015/05/30

国立能楽堂の企画公演で、高野山開創1200年を記念して高野山の声明と能「高野物狂」。高野山には2週間前に行ったばかりで、実はその計画が前から決まっていたのでこの日の演能のチケットもゲットしていたという次第です。

この日の開演は13時。正午を回ったばかりの国立能楽堂は5月だというのに炎天下で、女性は日傘が手放せない状態でした。

そして館内に入ってみると、高野山から「こうやくん」がわざわざ出張してくれていました。つぶらな瞳に合掌ポーズも可愛らしいこうやくんは6歳の男の子なんだそうですが、それでいて身長は私と同じくらいあります。

高野山の声明

まず最初に真言聲明の会の代表である井川崇高氏が舞台上に登場し、声明についての解説を行って下さいました。声明とは何かと言えば、経典を無伴奏で唱える声楽ということになります。ただしこれは日本でのことで、インドのशब्द विद्या (śábda vidyā)を中国で音写した「声明」は音楽ではなく、音韻学・文法学のこと。奈良時代の東大寺大仏開眼供養でも仏教音楽が奏され、これは梵唄ぼんばいと記録されていますが、平安時代には新たに真言声明と天台声明が中国からもたらされ、その後分派著しくなって混乱したために12世紀に仁和寺の覚性親王が仁和寺本相応院流、仁和寺新相応院流、醍醐流、大進上人流の四流に再構成されました。このうち奈良の大進上人流が高野山に請われて本拠地を移転し、高野山には「南山」の別称があったので南山進流と称するようになって今日に至っています。一方、梵唄と共に大仏開眼供養で披露された散楽は、その後市井に入って田楽、延年などに受け継がれ、巡って今日の能につながりました。つまり、大仏開眼供養に際して同じく大仏の前で奏され演じられた梵唄と散楽が、長い時を経て再びこの日の国立能楽堂に肩を並べることとなった、というわけです。

さて、まず鏡の間で梵鐘が繰り返し打ち鳴らされ、盛装の納衣七條も美々しい八人の僧と黒い平衣の侍僧一人が橋掛リに並ぶと、最初に井川崇高氏がソロで朗々と金剛薩埵を讃える四智梵語を歌い、その後に合唱となりました。その瞬間、能楽堂の中は高野山の寺院の一つとなったかのような密教的空間に変貌します。鈸が打ち鳴らされて反音が唱えられ、僧たちが一礼して舞台上に場所を移してから、吉慶漢語、五悔、勧請、五大願、三十七遍合殺と続きます。ことに三十七遍合殺は、立ち上がって手にした盆から取り出した散華を巻きながら「毘盧遮那仏」の名号を37回唱えるもので、この日はそのうち初重の十三句のみでしたが、印象深いものでした。最後に秘讃(特別な秘曲)である供養讃が唱えられて声明は終わり、鐘の音と共に僧たちは橋掛リを下がっていきました。

高野物狂

「高野物狂」は一昨年に宝生流の渡邊荀之助師のシテで観ており、高野山への憧れをかきたてるに十分な舞台であったのですが、この日は金剛永謹師がシテ。期待しないわけにはいきません。

地謡や囃子方が舞台上の所定の位置につくと共に幕が開き、音もなくシテ・高師四郎(金剛永謹師)が登場。橋掛リを静かに進んでくるその姿は長裃に頭陀袋、精悍な直面に堂々たる体躯で、確かに次第の囃子など不要と言えるだけの存在感があります。宝生流では影頼むべき行く末や 若木の花を育てんという次第が冒頭に謡われましたが、この日の演出は舞台正中まで静かに進んだシテがフランク永井風の深い声で名ノリから入ります。ここは常陸の国、昨秋亡くなった主君・平松殿の命日に当たるので寺に参って焼香しようと語り、法華・阿弥陀・観世音の三世利益を祈って合唱・礼拝しているところへアイが登場して、平松殿の遺児である春満が手紙を残し行方不明となったことをシテに告げました。舞台上でアイから春満の文を受け取ったシテがこれを読めば、シテに深く感謝し名残も惜しみつつ、修行に赴く春満の真情を吐露する長い詞章。これを淡々とした声音の中にもところどころに大胆な抑揚を交えて読む謡はひときわ聞き応えがあり、文を下ろしてシオる姿には深い絶望が滲みます。

行方を尋ねるべく中入となったところで正先に松の木の作リ物が置かれましたが、これが高野山の三鈷の松。明州の港から空海が投げた三鈷杵が掛かっていたという伝説のある松で、既にここで舞台は高野山に移っています。急激な舞台転換を示すヒシギが入り、次第の囃子となって登場したワキ・高野山の僧(工藤和哉師)が、明るい緑の水衣にキラキラの角帽子も凛々しい子方・春満(漆垣皓大君)と共に(ワキツレなし)舞台に進んで松をはさんで向かい合い、昨日重ねし花の袖、今日墨染の袂かなと次第を謡います。ワキにこちらへと誘われて脇座に下居した子方の後ろへ後見が素早くすり寄り、二言三言何事かを囁いて去っていきましたが、あれは何?ともあれ、ここで激しい鼓の連打と笛による一声の囃子が奏され、侍烏帽子にブルーの水衣を肩あげにして白大口を穿き、物狂いの印である笹を肩にしたシテが登場しました。前場のゆったりした姿とは打って変わって速い口調・速い歩調で蘇武雁札の故事を謡いながら常座へ進むと、ドンドンと足拍子を踏んで笹を手に激しく舞台を廻るカケリ。さらにゆったり舞いながら高野山へ続く山道を狂い上る詞章が続きましたが、立ち昇る雲路の、ここはいづく高野山に、来てみれば貴やな、あるひは念仏称名の声々……と高野山上の清浄な雰囲気に心も落ち着き、三鈷の松の根元近くに安座の姿勢となりました。

ここでワキは不思議やなこれなる人を見れば、物狂ひにてありげに候とシテを見咎め、誰何することもなく直ちにシテに対してこの場にふさわしくないから立ち去るようにと告げます。ここからシテとワキとのテンポの良い言葉の応酬が続きますが、二人の問答はやがて弘法大師を讃える詞章に変わって、シテが居住まいを正して正中で床几に掛る内に高野山開創の由来となる三鈷の松の伝説を語るクリ・サシへと変わります。しかるにこの頃から、子方の足がつらくなってきたらしくしきりにもじもじしていて脇正面から子方の姿を真正面に見るこちらをはらはらさせましたが、シテは気にせず(気づかず?)、さらに高野山の松風月影の中の奥の院の無常な情景を謡うクセの前段をじっと聞くと、後段から立ち上がって舞にかかり始めました。地謡が法の称名妙音の、心耳に残り満ち満ちて、唱へ行ふ聞法の、声は高野にて静かなる霊地なりけりと高野山に満ちる声明の響きを描写したところから男舞となり(ここで子方は素早く辛かった足を入れ替え)ました。さすがは「舞金剛」の異名をとる金剛流宗家、流れるような足運びと素晴らしい上体の安定感は、脇正面から見てこそ実感できるもの。そして男舞の後には花壇上・月伝法院・紅葉三宝院・雪は奥の院と高野山の四季が謡われ、しかしそれらの中心にある常盤の三鈷の松へと視点が移ったとき、それまでどこまでも高揚してきていた物狂いの狂乱が一瞬の間をはさんで正気に戻り、シテはゆるさせ給へ御聖と合掌しました。こうして正気になったシテはワキの傍らに控えている子方の存在に気づき、それこそ探し求めていた春満であることを認めます。驚いたワキが子方に生地、父の名前、子方の氏名を次々に問いかけましたが、これに答える子方の言葉には先ほどまで足を痛そうにしてぐらぐらしていた脆弱さは微塵もなく、堂々とした答えぶりでした。

キリは春満に再開できたことを感謝するシテの拝礼から始まり、姿勢を戻すと子方のもとに駆け寄りその肩を抱いて立たせ、そのまま(元結を切る所作はなしに)子方を橋掛リへ送り出しました。そして自らは舞台上で回転すると、常座で留拍子を二度踏んで、一曲を終わらせました。

配役

大曼荼羅供法則より
「庭讃(四智梵語)」「五悔(初段)」「勧請」「五大願」
正御影供法則より
「吉慶漢語(初段)」「三十七遍合殺(初重・十三句)」「供養讃」
真言聲明の会
 
能(金剛流)「高野物狂」 シテ・高師四郎 金剛永謹
子方・平松春満 漆垣皓大
ワキ・高野山の僧 工藤和哉
アイ・高師四郎の下人 小笠原匡
主後見 廣田幸稔
地頭 宇高通成
一噌幸弘
小鼓 幸清次郎
大鼓 安福光雄

あらすじ

高野物狂 → [こちら