高野山参詣

弘法大師空海が高野山に真言密教の道場を開くことを嵯峨天皇に認められたのは、弘仁7年(816)。今年は高野山開創1200年にあたり、4月2日から5月21日までの50日間、開創1200年記念大法会が執り行われます。一応、私の実家も真言宗ですし、お大師様の事跡を尋ねて一度は高野山に登ってみたいものと思っていましたから、これは見逃すわけにはいきません。

というわけで、南海電鉄の高野山・世界遺産きっぷを買い求めて、なんば駅から一路南下することとしました。

2015/05/16

朝一番に品川からのぞみに乗って、新大阪から御堂筋線でなんば駅へ。乗り換えの時間にゆとりがあまりないので早足でなんば駅構内を移動しましたが、ここは先日、なんばHatchでのライブの際に下見をしてあるので大丈夫。世界遺産きっぷもそのときにゲットしていたのでした。

春夏秋冬の柄がカラフルなこうや号は4両編成。

そして、座席の向きを自動で調節できるハイテク車両でもあります。

列車は、紀ノ川を渡るとやがて山深い風景の中を走るようになり、徐々に高度を上げてやがて極楽橋駅に着きました。ここでケーブルカーに乗り換えです。

ケーブルカーの乗車時間は5分間ですが、一気に高度を上げて雲間に入る内に俗世を離れて行く心地がしてきます。

ケーブルカー終点の高野山駅からバスで市街地に入り、中心部に当たる千手院橋で降りました。実は、高野山というのは吉野山と同じように尾根上に展開した寺院群なのだろうとなんとなく思っていたのですが、実際には山上盆地のような地形であることが後からわかりました。空海がなぜ都から離れたこの地を密教の根本道場にしたのかは定かではありませんが、一説には、この地に産する丹砂(硫化水銀)の利権を押さえる土着の一族との関わりが深かったからではないかと言われています。そう言えば、紀ノ川を渡ってすぐの位置にある九度山には丹生官省符神社が、さらに2時間ほど登った位置には丹生都比売神社があり、そこに祀られているのは高野山開創に当たって空海を導いた狩場明神、丹生明神、そして高野山を空海に授けた丹生都比売。「丹生」という地名は各地にありますが、いずれも水銀の鉱脈がある場所を指しています。そして水銀は、それ自体がかつて不老長寿の効果があると信じられていたほか、金とのアマルガムを作ることで鍍金にも使用されており(奈良東大寺の大仏もこの方法での金メッキ)、その生産を掌握することは大きな財政的基盤を確保することにつながります。

金剛峯寺

高野山の主要な見所は金剛峯寺・壇上伽藍・奥之院の三ヶ所ですが、まずは千手院橋から歩いてすぐの金剛峰寺に向かうことにしました。ここは豊臣秀吉ゆかりの青巖寺(亡母の菩提のために建てたもの)と興山寺を明治初年に合併して金剛峯寺と改称したもので、高野山真言宗の総本山とされていますが、元来「総本山金剛峯寺」と言えば高野山全体を指し(一山境内地)、その場合の本堂は壇上伽藍の金堂になるのだそうです。ちなみに、山上には金剛峰寺と塔頭寺院をあわせて117の寺院があるのだとか。

金剛峯寺の入口近くにしつらえていた案内所で説明を受けて、いろいろな特典があるフリー参拝証を買い求めることにしました。ちなみに「世界遺産きっぷ」も二日間バス乗り放題で、移動や参拝にいちいち財布を出さずに済むというのはありがたいことです(合掌)。

まずは正門から主殿へ。主殿の屋根の上には防火用の天水桶が設置されているのが見えます。

この日はあいにくの小雨模様で、境内はぬかるんで歩きにくい状態でしたが、その境内には回向柱が立てられ、五色の紐が主殿から伸びていました。まずここで回向柱に下がる紐を手にお祈りをして、右手の小玄関から主殿の中に入り大広間の前の廊下を進むと、持仏間の前に出ます。持仏間には御本尊の弘法大師坐像があり、五色の紐はその御手に結び付けられたもの。大師のお姿は少々遠くて細かいところまで拝見することはできませんが、自然に頭が垂れる厳かさを感じます。この御本尊は延宝8年(1680)に作られたもので、今回は平成11年の平成大修理落慶大法会以来16年ぶりの開帳となるそうです。

主殿の廊下をさらに進んだ角にある柳の間は、秀次自刃の間。文禄4年(1595)、豊臣秀次が秀吉の命で高野山青巌寺(現在の金剛峯寺)に蟄居した後に自刃したところとされていますが、主殿自体は火災による焼亡に伴い文久3年(1863)に再建されたものです。

渡り廊下を通って、新別殿で麩菓子をいただきながら僧侶のユーモラスな解説を聞きました。本当はお茶のサービスもあるのだそうですが、ゴールデンウイークに殺到した拝観客へのお茶出しでてんてこまいになったお茶出しのおばさんたちがダウンしてしまい、今日はお茶がなくて申し訳ないと語っておられました。気の毒すぎる……。ここで「お大師さまが高野山を開かれる際に最初に作った『御社』を、ぜひご覧なさい」という解説を聞いてから、別殿に移って襖絵の数々を拝見し、白砂と花崗岩からなる蟠竜庭を拝見。この庭は、雲海に浮かぶ雌雄の龍が奥殿を守る様子を表しているそうです。その後、主殿に戻って大釜が並ぶ台所を通って、再び境内に出ました。

さて、時刻としては昼食をとりたいところなのですが、高野山というのはそれほど大勢の観光客が押し寄せることを想定した作りにはなっていないらしく、食堂の類はどこもかしこも長蛇の列になってしまっています。仕方なく、金剛峯寺前の駐車場の近くに屋台を構えていたたい焼き屋でたい焼きを二つ買って、食べ歩きしながら壇上伽藍を目指すことにしました。

常喜院 / 大師教会

道すがら、常喜院の赤地蔵に挨拶をして……。

大師教会で「授戒」体験。これは何かと言えば、暗闇の部屋の中でわずかな灯明にシルエットのみとなった阿闍梨様の唱える真言とありがたい法話を聞くというミステリアスなもの。参加者も「南無大師遍照金剛」を唱えて祈った後に、菩薩十善戒が記された「菩薩戒牒」というお札をいただくことになります。

あな、ありがたし。

霊宝館

壇上伽藍へ向かう道の左手には、高野山密教美術の宝蔵とも言うべき霊宝館があります。

大法会期間中に特別公開されているのは、高野山三大秘宝とされる《国宝 諸尊仏龕》《国宝 聾瞽指帰ろうこしいき》《重文 飛行三鈷杵ひぎょうさんこしょ》と快慶作《孔雀明王坐像》。三大秘宝は2011年に東京国立博物館で開催された「空海と密教美術展」で見ており、4年振りの拝見ということになります。

しっとりした前庭を通って、展示室へ。

インパクト十分の《愛染明王坐像》や《不動明王坐像》の先には、一体だけ妙にノーブルかつ神々しい《孔雀明王坐像》。孔雀は毒蛇を食べることから諸害を祓うと信じられ、孔雀の背の蓮華に乗った明王の四本の手には倶縁果・吉祥果・蓮華・孔雀の尾羽根が握られていて、高いところから衆生を見下ろしています。その右手には筋骨隆々の《四天王立像》。いずれも快慶作とされていますが、本当に快慶の手になるものは広目天一体だけで、後は快慶工房作というのが正しいようです。それにしても、ここは凄い。なにしろ高野山の大事な寺宝は皆ここに集まっているのですから、高野山に来たら霊宝館を訪ねないという選択はあり得ません。

コンパクトな砲弾状の木を彫ってガンダーラ様式を思わせる釈迦如来像を中心に極めて細かい細工を施した《諸尊仏龕》(空海が中国から持ち帰ったもの)の緻密さに改めて驚き、《飛行三鈷杵》の異形に見入り(飛行三鈷杵の謂れについては後述)、《聾瞽指帰》の墨跡に空海の志を見てとって、さらに運慶作《八大童子立像》〈国宝〉の目つきの鋭い恵光童子や赤い肌にきりっとした目つきの制多伽童子、頬を膨らませた僧形の清浄比丘童子などそれぞれ個性的な童子たちを眺めました。他にも、各種仏画や御社の奉納品である懸仏・刀剣類も展示されていたのですが、もうお腹いっぱいです。最後にほとんどデーモンと言ってよい《深沙大将立像》の恫喝を受けて、霊宝館を後にしました。

壇上伽藍

いよいよ、一山境内地の中心地となる壇上伽藍に到着しました。しかし、折良くというか折悪しくというか、ちょうどこのとき安倍総理が高野山を訪れていて、この壇上伽藍に到着する時間帯にぶつかってしまいました。ミーハーな私は参詣そっちのけで安倍総理の到着を待ったのですが、現れた総理が中門を抜けながら即席通路の両側に居並ぶ観光客とハイタッチをしているのにはびっくりしました。警護の人たちにしてみればハラハラものだったでしょうが、総理本人は極めて上機嫌で階段を上がり、金堂へと入っていきました。

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さて、こうなるとしばらくは金堂に入れそうにありません。壇上伽藍を本格的に見て回るのは翌日に回すことにして、とりあえず根本大塔や西塔の大きさを確かめてから宿へ向かうことにしました。

摩尼宝塔

千手院橋から奥之院方向へ進んで徒歩10分ほどのところにある宿坊・持明院のすぐ近くにある八角塔へ立ち寄ってみると、これは成福院摩尼宝塔と言って第二次世界大戦での「ビルマ方面戦没者」を祀る施設になっており、中にはミャンマーから贈られた仏像、民具、楽器などがこれでもかと陳列されていて、ミャンマー訪問の経験がある私にとっては、懐かしい思いがする場所でした。

持明院

この日の泊まりは、宿坊・持明院。門を入ると右奥にはミニ八十八ヶ所巡りの広場。

意外!どうやら外国人宿泊客も多いらしく、部屋にはベッドがしつらえられていました。

部屋まで運んでいただいた夕食は、もちろん動物性タンパク質を含まない精進料理です。生麩や高野豆腐がとても美味。天婦羅は抹茶塩でいただきました。

声明とプロジェクション・マッピング

食後に再び壇上伽藍へ。目当ては根本大塔を用いたプロジェクション・マッピングですが、東の蛇腹道からアプローチして15分前に着いたときには既に会場となる根本大塔前の境内は一杯で入れません。

それならと中門側に回り込んでみると、どうにか会場の外からでも見られる位置に立つことができました。

ファンタスティック……。声明や和太鼓の演奏をバックに根本大塔の上から散華が降り注ぎ、仏さまの姿が浮かび上がり、三鈷杵が回転します。後から知ったことですが、本当は実演中は撮影禁止で、ショウが終わった後に撮影用に静止投影がされる計らいになっていた模様。すみません。

ともあれ、宗教都市・高野山のまさに秘儀の如きイベントを十分に堪能して、宿に戻るとすぐに眠りにつきました。

2015/05/17

朝、お勤め(昨日の授戒と似たような雰囲気)に参加して、ヘルシーな朝食をいただいてからチェックアウト。

出家した父を追って高野山へ上がった石童丸と刈萱道心が親子と名乗りあえぬまま師弟として修行したとされる刈萱堂に立ち寄って、いよいよ奥之院へと向かいます。

奥之院

ここが奥之院参道の入口です。一の橋を渡るとうっそうとした杉木立の中、数え切れないほどの供養塔の間を縫うように道が続きます。その数、およそ20万基とか。大師の足元で供養されたいという願いと徳川家の庇護とがここに多くの武将の供養塔を立てさせたらしく、有名なところだけでも上杉謙信・景勝、武田信玄・勝頼、石田三成、明智光秀……と名だたる武将の供養塔。鬱蒼とした木々の中に遺址が残るさまは、かつて訪れたアンコール・ワット周辺の遺跡をかすかに連想させます。

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まあ、それは連想が飛躍しすぎだとしても、この延々と続く参道と無数の供養塔の数々の雰囲気は、間違いなく俗世を離れた敬虔なもの。

やがて中の橋を渡ったところに、汗かき地蔵のお堂と姿見の井戸がありました。前者は水滴がついて汗ばんでいるように見えることから、衆生の苦しみの身代わりとなっているとの言い伝えがあり、後者は水面を覗いて自分の姿が見えなければ3年以内に命がなくなるとされています。こわごわ覗いてみましたが、幸いに自分の姿が映っていてほっとしました。もっともこの話は江戸時代になって広まった話で、もとは病を患った扶閑中納言が夢枕に立った弘法大師のお告げに従ってこの水を飲んだところ快癒したことから「薬井」と名付けられていたのだとか。

しばらく歩くと、参道の右側にあったのが化粧地蔵。この地蔵に化粧すると願い事がかなうとされていて、通りがかる女性たちが次々におしろいやら口紅やらを塗っていました。

豊臣家墓所は、ここだけ贅沢に開けた場所に供養塔が数基。一方、織田信長供養塔は筒井順慶を従えて参拝客を集めていましたが、解説のお坊さまは人々に「ぶっちゃけ、織田信長のネームバリューが欲しいのでここに立てられているんですよね」と身も蓋もない話をしておられました。

いよいよ、玉川にかかる御廟橋に着きました。ここから先は撮影禁止です。一礼をして玉川を渡り、冷涼な空気の中をまっすぐ進んだ先が弘法大師御廟の拝殿となる燈籠堂。その手前左手には弥勒石が納められた堂があり、格子から手を入れて持ち上げると罪の軽重に応じて石の重みが異なるとされていますが、行列ができていたのでこれはパス。そのまま階段を登って塗香を両手にすり込み、燈籠堂に入りました。内陣には、黒髪を売って寄進したお照という女性の代わりに祈親上人が献じた祈親灯(貧女の一灯)と、白河上皇が献じた白河灯(長者の万灯)がいずれも千年近く燃え続けていますが、それは見ることがかなわないままに左へ回り込み、堂の後ろにある御廟へ向かいました。

ありがたや高野の山の岩かげに 大師はいまだおわしますなる

燈籠堂の真後ろにある御廟は小ぶりの檜皮葺の門の向こうにあり、離れたところから拝むことができるだけ。弘法大師は承和2年(835)3月21日に入定されて以来、この御廟の地下の霊窟に身を留めてそこにおわすのだとか。このため、今も毎日食事が運ばれ、年に一度は衣服も納められるそうです。

御廟に参拝の後、さらに回り込んで燈籠堂の地下に入り、迷路のような順路を進んで御廟の霊窟に向かい(もちろん見えるわけではありません)祈ることができる場所で再び頭を垂れました。

御廟橋に戻り、参詣の人々が水向け地蔵に水を手向けるのを眺めてから護摩堂・御供所の前を通って、行きの参道とは違う道を下ります。

ミニマルアートのような無縁塚に圧倒されましたが、さらに各種企業の慰霊碑などが並ぶ異様なさまにも驚きます。鬱蒼としていた参道とは異なり、こちらの道は明るく開けて新しい墓地のようでしたが、「しろあり、やすらかにねむれ」の墓碑には吹き出してしまいました。

壇上伽藍

前日、思わぬ事情でゆっくり見ることができなかった壇上伽藍にあらためて訪問。今日はよい天気で、小雨模様の昨日とはまた違った風情の中門をくぐります。

この中門は、天保14年(1843)の焼失以来礎石だけの状態だったそうですが、今回の開創1200年記念事業の一環として172年振りに再建されたものだそうです。残されていた持国天と多聞天に加え、新たに増長天と広目天も設置されて、四天王ががっちり伽藍の正面を守る形。ここをくぐって階段を登れば、やはりここでも回向柱が迎えてくれました。

金堂の前には長蛇の列ができていましたが、案外すんなりと中に入ることができました。現在の建物は弘法大師1100年御遠忌の2年前にあたる昭和7年(1932)の再建で、御本尊の阿閦如来・薬師如来もそのときに高村光雲師によって造られたもの。以来ずっと金堂内陣の厨子内に安置された秘仏となっていましたが、今回特別開帳されていました。そのお姿はお身体も光背も白木のように白く、不思議な生々しさをもっていました。その左右には三体ずつの菩薩や明王がカラフルに控え、さらに内陣を画する左右の位置に平清盛が奉納した両界曼荼羅(血曼荼羅)のレプリカが掲げられています。

昨夜プロジェクション・マッピングの舞台となった根本大塔は、改めて見てもやはり巨大です。中に入ると、八角形の台座の中心にこれまた大きな金ぴかの大日如来像があり、その左右に金剛界四仏の阿閦、宝生、無量寿、不空成就の各如来が置かれ、台座の外周と大日如来の周囲を合わせて合計16本の柱にも菩薩像が描かれていました。ガイドブックの写真ではきつい原色が強調されていましたが、実物を見てみると落ち着いた色合いになっていて、宗教的な厳粛さは少しも損なわれてはいません。

丹塗りの柵に囲まれたこれが、三鈷の松です。空海は宝亀5年(774)に讃岐で生まれ、18歳のときに奈良で大学に入ったもののこれを退学。四国に戻って厳しい修行の後に20歳で出家したと言われてきました。その後、延暦23年(804)に20年間の留学の予定で唐に渡ったものの(実際の得度はその直前というのが現在の有力説)、長安で恵果阿闍梨から密教を学んで2年余りで帰国。その帰国に際し、日本に真言密教を広めるにふさわしい場所を求めるため出港地となる明州で三鈷杵を投げたところ、それが飛来して引っかかっていたのがこの松だそう。昨日霊宝館で見た飛行三鈷杵こそ、この空海が明州から投げた三鈷杵です。もっとも本当のところは、空海は大学に入ってしばらくした後に山中に入り自ら修行を続ける中で、この地にも既に足を踏み入れていたのではないかとも言われています。

三鈷の松のすぐそばにある、弘法大師の持仏堂であった御影堂と、その左の准胝堂。

准胝堂のさらに左奥の孔雀堂(孔雀明王を祀るお堂)と、枯れた味わいの鐘楼。

根本大塔と比較しても十分に大きな西塔と、御社〈重文〉。弘法大師はここに伽藍を構えるにあたり、まず講堂(金堂)を建てた後、ここに丹生明神(丹生都比売大神)と高野明神(狩場明神)を勧請して高野山の守護として祀りました。つまり、当時にあっては異教である真言密教をこの地に持ち込むに際して地元の神の了承を取り付けたということになりそうです。

巨大マニ車?と見紛う六角経蔵は美福門院が寄進した紺紙金字一切経を納めるために平治元年(1159)に建てられたもの(昭和9年の再建)。基壇の上に把手があり、押せば回るかと思いましたがびくともしませんでした。また、金堂の左手にある登天の松と杓子の芝は、久安5年(1149)に如法上人がここから浄土へと昇天したという謂れがあります。

金堂の裏を通り、根本大塔の前を抜けて一段降りたところにある不動堂〈国宝〉は建久8年(1197)に建てられ、明治41年に別の場所からここに移築されたもの。八大童子像はここに安置されていたそうです。不動堂の近くにあるのは愛染堂。

大会堂と三昧堂。もともと別の場所にあったこの二つの堂をここへ移築したのはあの西行法師で、西行は高野山に32歳から30年ほど庵を構えていました。

東塔の前を通って、蛇腹道から伽藍の外へ。金堂で「お裾分け」としていただいた饅頭を手に振り返れば、根本大塔がどこまでも高い。

伽藍の外へといったんは思いましたが、ふと思いついて方向転換し、最後に蓮池の善女竜王社に挨拶をしていきました。

大門

壇上伽藍の前からバスに乗ってさしたる時間もかからずに着いたのが、高野山の西の端にあたる大門です。高野一山の総門であり、九度山から丹生官省符神社、丹生都比売神社を経て高野山町石道を登ってくるとここに出ることになります。

徳川家霊台

大門から再びバスに乗りましたが、奥之院行きのバスであったので千手院橋で降り、てくてくと歩いて徳川家霊台〈重文〉に向かいました。

寛永20年(1643)、三代将軍家光が祖父・家康と父・秀忠を祀るために建立した建物。人工的に築かれた台地の上に一重宝形造りの建物が二つ並んでいて、向かって右が東照宮家康公霊屋、左が大徳院秀忠公霊屋。

それぞれの周囲には縁と勾欄が巡り、日光の東照宮を連想させる霊屋の外観もさることながら、中に金銀蒔絵・極彩色飾金具で江戸時代の工芸技術の粋を尽くした厨子が安置されていました。この内部が見られるのも、この期間だけのことです。

卯年生まれの秀忠霊屋の向拝の唐破風軒下には中央に兎、その左右に虎。一方の家康霊屋は虎の左右に麒麟。虎が家康だとすれば、兎の秀忠は父・家康の庇護の下にあるという構図になります。

女人堂

徳川家霊台からさらに歩けば、昨日バスで通過した不動坂口(高野七口のひとつ)の女人堂に辿り着きます。明治に入るまでは高野山は女人禁制で、信心深い女性信徒は真言を唱え七口の女人堂を辿りながら高野山を囲む峰々を巡ったものだそうです。

柴灯大護摩供

最後は再び大師教会に戻り、柴灯大護摩供を見ることにしました。

最初の女性山伏の問答が30分も続いたときにはどうなることかと思いましたが、その後のプログラム(?)はすらすらと進み、いよいよ点火されると大変な煙と熱になりました。風向きが変わると熱気が客席に押し寄せて観光客を逃げ惑わせ、さらに火力が強くなると女性山伏たちも緊急避難を余儀なくされる始末。それでもどうにか燃え尽きた後には火渡りとなり、山伏の力強い九字(臨兵闘者 皆陣列在前)の後に次々に山伏、そして一般信徒が渡っていきましたが、足元のおぼつかないおじさんが案の定途中でバランスを崩して倒れこんでしまったのには大いに慌てました。幸い、すぐに山伏たちが救出してくれたのですが、あれは手足に火傷を負ったのでは……。

帰りのバスは大変な混み具合でなかなか乗れませんでしたが、どうにかケーブルカー駅まで帰り着き、極楽橋から何回電鉄での帰路につくことができました。

初めての高野山でしたが、壇上伽藍の壮麗、奥之院の静謐、そして一山境内地全体の仏教空間としての趣などいずれも好ましく、これはどうしてもまた来たいと思わせられました。さらに、この高野山からは熊野本宮へと熊野古道のうち小辺路が続いていますから、熊野古道の旅へと発展させることが可能。山屋としては大峰奥駈道(吉野から熊野本宮へ)がいずれは辿りたい道となりますし、空海ゆかりということでは四国八十八箇所巡りも当然忘れるわけにはいきません。そんなわけで、今回の高野山参詣はさらなる旅路に向けた起点ということになりそうです。