ルーヴル美術館展

2015/04/18

上野から乃木坂へ移動して、地下駅から直結している国立新美術館に入りました。

目当ては「ルーヴル美術館展」のフェルメール《天文学者》でしたが、国立新美術館では「マグリット展」も同時に開催していることをポスターで初めて知りました。しょうがない、後でそちらも覗くことにするか……。

懐の深いルーヴルだけに、「ルーヴル美術館展」という同じネーミングでありながら、これまでに古代ギリシア芸術や、さらに枠を広げた地中海美術に関する展示を見てきていますが、今回の展覧会はぐっと射程距離を狭めて、16世紀初頭から19世紀半ばまでの約3世紀半にわたるヨーロッパ風俗画の展開を約80点の絵画で紹介しようとするものです。

プロローグI「すでに、古代において…」風俗画の起源
まずはルーヴルならではの古代美術コレクションから、墓碑、オストラコン(陶片)、壺などの表面を飾る人々の日常生活の描写に、風俗画の起源を探るコーナー。一見、日常の場面を描いているように見えながら、あるものは若くして亡くなった母親を悼むものであったり神話に紐付けられる寓意を持っていたりしますが、純粋に生活の一部を切り取ったものも少なくありません。ことに古代ギリシャの壺の黒を基調とした彩色の美しさと様式的なデッサンの確かさは、この手の遺物に共通の魅力ですが、その直後に配置された、古代ギリシャ風の衣装をまとった女性たちが羽を生やした天使(アモル)を売り買いしている情景を描く18世紀の絵画にショックを受けました。このギリシャ風様式の作品《アモルを売る女》を描いたジョゼフ=マリー・ヴィアンは「古代回帰」志向の中心人物であり、フランス絵画の「復興者」と見なされています。
プロローグII 絵画のジャンル
次に、そも風俗画とはいかなる位置づけの作品群なのかというお勉強のコーナー。17世紀の王立絵画彫刻アカデミーの価値観では、芸術は歴史と物語を扱わねばならず、その下には肖像画、動物画、風景画、そして静物画が位置づけられました。ここでは、たとえばシャルル・ル・ブラン《キリストのエルサレム入城》(17世紀)の劇的な表現とリュバン・ボージャン《チェス盤のある静物》(17世紀前半)の装飾的な静かさとの対比が見事ですが、その後に登場するル・ナン兄弟《農民の食事》(1642年)が風俗画の嚆矢だとしても、ジャンルとしての「風俗画」という概念が確立するには18世紀末まで待たなければならなかったのだそうです。
第I章 「労働と日々」 — 商人、働く人々、農民
ここでは様々な職業の人々が描かれた絵画が並んでいますが、《両替商とその妻》や《徴税吏たち》(いずれも16世紀)に登場する「世の中すべて金」的な表情をした市民を見ると、これの面白いが美しいとは言い難い絵をいったい誰が買おうと思ったのか?と素朴な疑問が湧いてきます。また、ホントホルスト《抜歯屋》(1627年)は大道でペンチで歯を抜くという奇怪な歯科医(?)とその涙目も哀れな患者を右に、これを見世物として楽しむ庶民とそこに紛れ込むスリ(もしかすると抜歯屋や患者とグル)を画面中央から左に配して、やはり気の抜けない日々の暮らしを生き生きと描いています。しかし、ムリーショの《物乞いの少年》(1647-1648年頃)の写実的な表現からは職業ではなく「貧者・貧困」への共感が感じられますし、19世紀まで時代が下ればドラクロワ《鍛冶屋》(1822年頃)やミレー《箕をふるう男》(1855年頃)の暗い表現の中に画家自身の高い精神性が窺えます。
第II章 日常生活の寓意 — 風俗描写を超えて
聖書に題材をとりながら風俗画の体裁を用いている《聖家族》《神殿から追い出される商人たち》《トランプ遊びに興じる人々のいる衛兵詰所での聖ペテロの否認》に続いて、トランプ遊びや占い、手品といった題材の中に気晴らしの運試しを戒める寓意をこめた作品をいくつか並べた後に、唐突にフェルメールの《天文学者》(1668年)が登場しました。この絵も例によって鑑賞者を魅了し、同時に困惑させる「何らかのストーリー」の存在を予感させますが、その含意が判然としないところがこの絵に崇高さをもたらしている、という見方ができそうです。この絵の中に描かれている、着物風の衣装をまとい、当時の知識人に流行した長髪をした男性は、フェルメールの30数点の絵画の中で共に数少ない男性主役の絵である《地理学者》と同一人物を描いた可能性があるそうです。
ただ、本展覧会の目玉でもあるこの作品だけは間近で立ち止まらずに眺めるコースと少し離れたところから立ち止まって見ることができるスペースとが用意されていましたが、51×45cmという案外な小ささと、照明が暗いせいか図版などで予想したものとは異なるくすんだ色使いのために非常に地味な印象しか受けず、少々落胆しました。もっともそれは、フェルメールの手によってあえて人物に焦点を絞らない描き方をされているせいだったのかも知れません。
第III章 雅なる情景 — 日常生活における恋愛遊戯
酒宴や恋愛を描く絵画が並ぶこの章では、17世紀オランダ絵画にこそ教訓的な糸が織り込まれていますが、その他の絵はストレートに男女の情愛と幸福感を描いています。ここは、ささっとスルー。
第IV章 日常生活における自然 — 田園的・牧歌的風景と風俗的情景
風景画の中に人物を登場させる場合、神話、聖書、歴史的事件などの背景として風景を描く英雄的風景画の行き方と、日常の営みを(戸外制作にも時間を割いて)素朴に描く田園的風景画とに分類することが可能です。この章では後者の内、両方の要素を含み得る狩猟の場面を描いた絵画をいくつも並べています。そこでは、あるものは風景そのものの穏やかな描写に力点があり、あるものは狩人とその獲物(象)の死闘をヴィヴィッドに再現しています。また、雷や嵐といった自然の威力にさらされている人々の姿を描く作品も同じコーナーに納められていましたが、狩猟にまつわる作品としてはフロマンタン《アルジェリアの鷹狩り》(1862年)に風格があり、またフラゴナール《嵐》(1759年頃)は柔弱なロココ画家というフラゴナールへの印象をかなり変えるものでした。
第V章 室内の女性 — 日常生活における女性
ここは、私生活の中で一人で、あるいは家族や女中と共に、寛いだ様子を見せる女性たちの絵を集めた章。髪をつくろう女性の姿が様々なパターンで描かれ、コロー《身づくろいをする若い娘》(1860-1865年)が『エコエコアザラク』の黒井ミサそっくりなことに驚いたりしましたが、プーシェ《オダリスク》(1745年?)の明るいエロティシズムには救われました。しかし、このコーナーに配された絵の中での私のイチ押しはコロー《コローのアトリエ》(1873年頃)です。楽器を手にしながらイーゼルの前に坐って目の前の風景画に見入る若い女性の姿には、絵の中に描かれた景観の中へ足を踏み出していきたいという憧憬が感じ取れて、見る者の感情移入を誘います。
第VI章 アトリエの芸術家
最後は、画家にとっての私的なスペースであり、創造の場でもあるアトリエの情景を描く作品群を並べていますが、概ね親密な雰囲気で描かれることの多いアトリエの中の画家たちの中に、なぜか猿の姿を描く作品が2点。これは、思慮なく模写するだけではなく、作品の中に独創や個性を発揮することを求める皮肉に満ちた教訓を提示しているのでしょう。そして、ロベール《ルーヴル宮グランド・ギャラリーの改修計画、1798年頃》(1798年頃)で美術館の中で模写に励む人々の姿を見せて、本展覧会は締めくくられました。

この美術展に足を運んだ動機がフェルメールの《天文学者》にあったことは紛れもない事実ですが、実際に巡ってみればやはりルーヴル美術館の底の深さを実感することになりました。「風俗画」というテーマに対し単館でこれだけ充実したコレクションを提供し、緊密なストーリー性のある企画に組み上げることができるのですから。

ルーヴル美術館にはかつて一度だけ訪れたことがありますが、いつの日か一週間くらいパリに滞在して、ゆっくりと館内を巡ってみたいものです。