塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

平泉の社寺巡り〔中尊寺・毛越寺〕

奥州藤原氏の都である平泉のことはもちろん、日本史の授業の中で学んで何十年も前から知っていましたが、この都に本格的に関心を持ったきっかけはNHK大河ドラマ『炎立つ』(1993年7月-94年3月)でした。前九年の役と藤原経清(????-1062)の生涯を描いた第1部、後三年の役と清衡(1056-1128)による勝利を描く第2部、平泉滅亡と秀衡(1122-1187)・泰衡(1165?-1189)を描く第3部の3部構成からなる9カ月のドラマが面白く、日曜日の20時からはテレビの前に釘付けになったものです。その後、奥州藤原氏を題材にした本などもいくつか読んで知識を深め、いつかは平泉に行ってみたいものと願っていましたが、その機会が『炎立つ』放映から20年後にしてようやく巡ってきました。年に一度の古刹巡りの目的地を、今年はいよいよ平泉と定めたからです。

2014/10/25

早朝に東北新幹線に乗って、一ノ関から在来線に乗り換えてすぐに平泉。駅前はなんだかあっけらかんとしていて、あまり観光地っぽくありません。

主な観光地(寺院や名勝など)を巡る巡回バスが用意されていて、観光客はこれを利用することが多いのですが、その前にすべきことがあります。

それはこちら、わんこそばをいただくこと。ただし、こちら芭蕉館さんの平泉式わんこそばは、食べるとお代わりを「ほいっ!」と抛りこまれるタイプではなく、最初から24杯の秀衡塗の小椀が用意してあって自分のペースで落ち着いて食べることができるタイプです。十分に腹を膨らませたところで巡回バスに乗って、まずは今回の旅行のメインイベントである中尊寺へ向かいました。

中尊寺

平泉の寺院(遺跡)群の中で最も奥まった北にあるのが、この中尊寺です。後で訪れる他の寺院や旧跡などとは比べ物にならないほどに充実した寺院としての結構を維持しており、平泉に来てここに詣でないということはあり得ないと断言できるほどの名刹(天台宗)です。その創建は嘉承3年(850年)慈覚大師によると伝えられていますが、藤原清衡が江刺豊田館から平泉に本拠を移した嘉保4年(1094年)頃から本格的な堂塔の造営が始まり、天治元年(1124年)に金色堂の完成を見るに至りました。この中尊寺を皮切りに、基衡の毛越寺、基衡夫人の観自在王院、秀衡の無量光院と次々に大伽藍が営まれて、平泉は浄土思想の理想世界を現世に再現する理想郷へと発展を遂げることとなります。なお、中尊寺に現在残っている堂宇は、建武4年(1337年)の大火で金色堂以外を焼亡した後、江戸時代に伊達藩の庇護の下で徐々に整備されたものであるようです。

表参道入口近くに、伝弁慶の墓という石碑と菊の花で飾った金色堂のミニチュア。弁慶は源義経を討つために高館に押し寄せた泰衡軍の前で立ったまま絶命(立ち往生)したとされていますが、本当にここに葬られたのかどうかは不明です。

この中尊寺は西北から南東へと長く延びる尾根の上に造立されており、すぐに登り始めることになるのが月見坂です。そこそこの急勾配を、伊達藩によって植えられたという樹齢300-400年の老杉を見上げながらのんびり登ります。

まず立ち寄ったのが弁慶堂です。文政10年(1827年)建立ですが、弁慶自作(?)という木像が安置されていました。

近くからは北上川とその向こうの束稲たばしね山を見ることができ、西行のききもせず束稲やまのさくら花 よし野のほかにかかるべしとはの歌碑がありました。これは西行が出家して間もない20代後半の頃の最初の陸奥への旅のときに詠まれた歌で、吉野山の桜に傾倒した西行が吉野以外にこれほど見事な山桜があろうとは知りもしなかった、と歌ったもの。西行=俗名佐藤義清は秀郷流藤原氏の末裔で、当時平泉の主であった藤原秀衡も秀郷流でしたから、2人は遠い血縁関係をもって交流したものと言われています。

参道の脇には地蔵堂、薬師堂、観音堂といったこじんまりしたお堂が次々に現れて、全部に挨拶していたら時間が足りないので適当に端折りながら先を急ぎます。

明治時代に再建された本堂。延暦寺より分火された不滅の法灯がこの中に灯っているそうです。

本堂の脇、とりわけ眼病平癒にご利益があるという峯薬師堂の前を抜けると、いろは紅葉が綺麗に色づいていました。

康永2年(1343年)に鋳造された盤渉調の梵鐘は、長年の打鐘により傷んだため今は撞かれることがないそう。その前を進んで、まずは国宝・重要文化財を収蔵する讃衡蔵で丈六仏や経典、仏具等を拝観し、さらに金色堂の美術の粋を紹介するビデオで予習した後、いよいよ金色堂〈国宝〉に向かいました。

これはすごい。間違いなく一見の価値があります。金色堂は現存する唯一の創建遺構で、本尊は阿弥陀如来。脇侍に観音・勢至菩薩、さらに六体の地蔵菩薩と持国天・増長天。堂全体が金箔で覆われ、見事な螺鈿細工や蒔絵が目を引きます。中央と左右の三つの須弥壇の中には藤原清衡・基衡・秀衡のミイラ状遺体と泰衡の首級が納められており、この金色堂が阿弥陀堂であると共に廟所でもあったことが窺えます。この金色堂全体が覆堂によって保護されており、参拝者は完全空調のガラス越しにこれらの絢爛豪華な仏教美術を拝観することになるのですが、この荘厳さは近づくことも畏れ多いと感じさせるものでした。

金色堂の近くには、芭蕉の句碑五月雨の降り残してや光堂。『奥の細道』の旅でここ中尊寺を訪れた芭蕉が五百年の歴史を経ても光を失わない(降り=古り)金色堂を読んだものです。この句碑に見入っているときに後ろからやってきた女子2人の会話「芭蕉じい?」「そうそう芭蕉じい」にはひっくり返りそうになりました。「芭蕉爺」ではなく「芭蕉翁」なんですが。

現在は讃衡蔵に収蔵されている《中尊寺経》〈国宝〉を納めていたという鎌倉時代末期建立の経蔵〈重文〉の前を経て、芭蕉の銅像を左に見ると、旧覆堂〈重文〉に達します。

金色堂を覆堂ですっぽり覆うことになったのは鎌倉時代中期の正応元年(1288年)のことですが、現存する木造覆堂は室町時代のものです。現在の覆堂ができたことでこの場所へ移築されたのですが、その用を終えてしまった内部の空間は、なんとも空虚な感じ。

少し離れたところにある能楽堂にも足を運びましたがこれまた実に立派で、ここで演じられる能をぜひ観てみたいと思いました。この能楽堂に別れを告げた後は、参道を下るばかりです。

中尊寺を出て、観自在王院跡や毛越寺へは徒歩で移動しました。つまり、平泉の主要建築はそれくらいの狭い範囲に集中しているということであり、平泉が京の都などに比べるとずいぶんと小さいものであるということです。そのことは、途中で立ち寄った平泉文化遺産センターで見学した平泉周辺の地図でもわかりました。しかし、最盛期には平泉の人口は10〜15万人に達し、当時の日本において京都に次ぐ大都市だったそうです。この人口は中尊寺の北で西から東へ北上川に注ぐ衣川の対岸や、もしかすると北上川東岸も含んでのものかもしれませんが、そもそも藤原清衡はなぜこの地に本拠を移したのか。それは、岩手県教育委員会作成のリーフレットによれば平泉が水陸交通の要衝地であったこと、さまざな植物が混在する南北自然の交錯点であったことさらに北上川東岸地域に大穀倉地帯が広がっていたことが上げられるようです。また、奥州藤原氏の統治範囲は南は白河関(北緯37度)、北は外が濱(北緯41度)に及ぶもので、この平泉はこれらの中心の北緯39度に位置するのだそうです。

観自在王院跡

南に進んで、毛越寺の前に観自在王院跡。こちらは奥州藤原氏二代目の基衡の夫人が建立したと伝えられる寺院です。基衡夫人は安倍宗任の娘ですから、基衡が奥六郡の統治の正統性を強化する役割を担って嫁した人なのかもしれません。

中心には大きな舞鶴が池があり、その北岸に大小の阿弥陀堂が建っていて、阿弥陀如来=観自在王如来が祀ってあったそうです。現在は史跡公園として整備されていますが、そのだだっ広さが諸行無常という感じがします。

毛越寺

観自在王院のすぐ隣が毛越寺。慈覚大師が中尊寺と同時期に創建し、二代基衡が再興して、往時には堂塔40、禅房500を数え中尊寺をしのぐ規模で、『吾妻鏡』に「吾朝無双」と評されるほどであったとのこと。境内に入るとすぐに、芭蕉の「夏草や」を新渡戸稲造が英訳した句碑がありました。

The summer grass / 'Tis all that's left / of ancient worriors' dreams.

こちらにも芭蕉の句碑、そして現在の本堂。

こちらが、大泉が池を中心とする日本有数の浄土庭園です。かつてあった南大門から、池の中にある島を通って対岸に建ち並ぶ壮麗な伽藍まで橋が伸びていたそう。池の中には石組みが突き出し、その先端の立石はこちらから見ると羽を広げた鶴が飛んでいるよう、反対側から見ると亀が首をもたげているように見えるとか。

左回りに池の周りを回って、慈覚大師を祀る開山堂を過ぎて北岸に渡ると、多くの礎石がきれいに残っていました。こちらには壮麗な金堂や講堂、さらには両翼に翼廊を経て鐘楼・経蔵等の堂宇が建ち並んでいたようですが、それらは鎌倉時代の火災や戦国時代の兵火によって焼亡してしまいました。

平安時代から今日にまで続く遣水。ここでは今も曲水の宴が営まれています。

美しい秋の池の周りを一周して、毛越寺見学はこれで終わりです。

無量光院跡

最後に、無量光院跡を訪れてこの日の締めくくりとしました。ここは、三代秀衡宇治平等院の鳳凰堂にならって建立した寺院ですが、今では池跡、中島、礎石のみが残っています。

なぜここを最後にしたのかというと、池の東に立つと橋・中島・本堂が一直線に並ぶ先に金鶏山があり、そこに沈む夕日を見られるからです。実際には4月中旬と8月末でなければこれらが一直線になることはなく、この日も既に残照の状態になってしまっていたのですが、それでも池面に映る夕景の美しさはまさに極楽浄土のようでした。

観自在王院の北にあたる位置のホテルに投宿。前沢牛のしゃぶしゃぶがメインの料理に、当地ならではのお酒(武蔵坊、関山、月の輪)を堪能しました。幸せ也……。

2014/10/26

朝風呂に入ってさっぱりしてから、この日は前日訪れていない観光ポイントをいくつか回った後、少し遠出することにしました。

金鶏山

まずは宿のそばの金鶏山。二代基衡が黄金で雌雄の鶏を作り、これを埋めて平泉鎮護を祈ったという言い伝えがあるという、標高100mほどの小山です。

その登山口には、源義経の妻子の墓。義経の享年が31ですから、奥方はかなり若かったはず。気の毒に……。そして山頂には金の鶏はもちろんおらず、発掘調査の結果では経典が埋められる経塚山であったそうですが、濃い朝霧のせいで展望は得られませんでした。

熊野神社

金鶏山の近くの熊野神社に寄り道。ここは神社としてよりも、この辺りに土器を供給する窯跡が見つかった場所として重要性があります。

高館

源義経が最期を迎えた場所として有名な高館は、政庁のあった柳之御所のすぐ北側のこんもりした細い山の中。今は北上川の流れに削られて尾根が細くなっていますが、かつてはもう少し広かったようです。

尾根の上に出ると、眼下に北上川の悠々とした流れが見えました。

尾根を北西へ進むと、石段の上に義経堂。中には義経の像が祀られていました。石段を降りたところの資料館には、ずいぶんとアバンギャルドな仁王像が立っています。また、展示資料の中には義経の足跡を日本地図上に線で示したものがありましたが、当時、奥州藤原氏が日本海沿岸を辿る海路を掌握していたことを背景に、義経は2度目の奥州行きに際して北陸から日本海を平泉へ落ち延びたのではないかという説が紹介されていました。

芭蕉が「夏草や」の句を詠んだのは、ここ高館でのこと。よって句碑もちゃんと立っていました。ただし、義経が実際に住まいし、鎌倉からの圧迫に屈した四代泰衡の軍に攻められて自害することになったのはこの高館でのことではなく、衣川の北岸であったかもしれないという説もあるそうです。

柳之御所遺跡

柳之御所は、三代秀衡による政治の中心地。卓越した政治家であった秀衡は、奥州に産する豊富な金と良馬、それに日本海を越えての海外貿易によって巨万の富を築き、京都の朝廷に対してもその財力・外交力を背景に影響力を行使していたそうですが、そうした営みはこの場において決定され、実行に移されていったのでしょう。

もともとここは国道のバイパス工事と北上川の護岸工事によって削り取られてしまう運命にあったのですが、工事前の緊急発掘によって遺跡や史料が出土したことから工事の計画を変更して保全されることになり、今では史跡公園となっています。

もちろん建物は一つも現存していませんが、礎石等を元にかつての建造物群や道路の姿が明らかになっており、いずれ整備の一環として復元される可能性もあるようです。

空壕も発掘されていました。この先、橋を渡って秀衡の私的な居館である伽羅御所に通じていたそうです。

近くの資料館では、柳之御所のかつての姿を再現したCGなどが展示されていました。その中心建物は大きな二つの建物で、東の中心建物は武家的な儀式の場、西の中心建物は貴族や高僧を迎えての儀式の場として機能していたそう。

伽羅御所跡

伽羅御所跡にも足を運んでみましたが、看板を掲げてあるだけのただの市街地でした。藤原氏の栄華を偲ぶ旅は、これでおしまい。残された時間で周辺の景勝地を尋ねることにします。

達谷窟毘沙門堂

バスで移動して、達谷窟毘沙門堂へ。連なる鳥居の赤さが鮮やかです。ここは坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の悪路王・赤頭・高丸が本拠としたところと言い伝えられていますが、悪路王を蝦夷の軍事指導者で坂田村麻呂と交戦の後降伏し都に護送された上で処刑された阿弖流為アテルイと同視する説もあるようです。

参之鳥居をくぐった先に、オーバーハングした岩の下にへばりつく毘沙門堂が現れました。なかなか立派です。上述の悪路王等を討った坂上田村麻呂が毘沙門天の加護への御礼として、京都清水寺の舞台造りを模して建てたのがこの毘沙門堂とされています。藤原三代の頃には周囲に堂宇も多く、この地を征服した源頼朝もここに参詣したという記録が『吾妻鏡』に残されています。

このハングは登れるかな?とオブザベーションしてみましたが、ライン云々の前に岩が脆過ぎてまず無理でしょう。

顔面大佛。前九年・後三年の両役の戦没者を弔うために源義家が馬に乗ったまま弓筈で彫りつけたという伝説が残っていますが、それが本当なら相当に背の高い馬であったことでしょう。

小さな橋を渡れば弁天堂。

坂道を登れば、鐘楼と不動堂。

さらに上には金堂と白山池。鄙びた雰囲気がなんともすてきでした。

厳美渓

最後に、さらにバスで足を伸ばして厳美渓に行ってみました。栗駒山から流れ出す磐井川中流の渓谷で、凝灰岩の岩盤が侵食されて複雑な景観を生み出しています。特に水流の中で礫が暴れることにより生み出された甌穴が多数見られることがポイントです。

ここの名物は、郭公屋の「空飛ぶだんご」。休憩所と対岸の店をつなぐワイヤーロープに下げられた籠に代金を入れて合図の板を叩くと、対岸の店が籠を引き上げて注文の内容を確認し、だんごと茶を提供してくれるというものです。自分も注文してみたかったのですが、だんご待ちの長蛇の列ができていたために断念しました。

それにしても面白い景観です。沢ノボラー的視点からは遡行の可能性を探りたくなりますが、ところどころ水流の厳しい瀑布もあり、遡行しようとすれば厳しい場面に遭遇することにもなりそう。

最後に郭公だんごを店舗でいただいて、長年の夢であった平泉旅行を楽しく締めくくることができました。