覇王別姫(天津京劇院)

2014/06/05

久しぶりの京劇鑑賞は、池袋の東京芸術劇場で「覇王別姫」。実は2月に能「項羽」を観るつもりで、それと見比べるつもりで先にこちらのチケットをとったのですが、蓋を開けてみれば能の方はチケット売切れで手に入らず、京劇だけを観ることになってしまったのでした。とは言うものの、今回の公演は主催の日本経済新聞社によれば梅蘭芳生誕120周年記念事業と位置づけられており、これはこれで観る意義がありそう。

20世紀前半までは京劇の女性役は歌舞伎同様に男性が演じることになっていましたが、戦前から戦後にかけて京劇界で活躍した四大名旦(「旦」は女役のこと)の中でも上品で洗練された雰囲気を特色とする梅派の創始者で京劇の改革者でもある梅蘭芳はとりわけ「覇王別姫」とセットで語られることが多いようです。そのあたりの経緯を日本経済新聞社のサイトから引用すると、次のとおり。

20世紀京劇の改良に生涯をささげた梅蘭芳(メイ・ランファン 1894-1961)は、斉如山らからなるブレイン集団とともに、古典の改編や数多くの創作を行っている。その中で「覇王別姫」は伝統演目に手を加え、虞姫像に新たな魅力を付与した作品である。虞姫は従来の役柄にセリフやしぐさを重視した演技術をプラスし、歌唱やクライマックスともなる剣舞に工夫を凝らして、貞淑なだけではなく、戦場に同行して生き死にを共に実感してきたりりしささえ感じさせる人物となった。衣裳も象徴化されたよろい(魚鱗甲)などが考案され、虞姫役だけの特別な衣裳として現在に引き継がれている。1922年北京における初演では、当時武生の大スターだった楊小楼が項羽役を務め、以後虞姫は梅蘭芳の持ち役となった。1956年梅蘭芳の第3回目の訪日公演でも「覇王別姫」のワンシーンが演じられた。訪日団長も兼任していた梅蘭芳はすでに63歳であったが、項羽を演じた袁世海の演技とともにその舞台は「悲壮美の極致」として絶賛されている。

ストーリーは2009年の天津青年京劇団の公演と変わりありませんので、ここで細かく説明することはしませんが、ひとつはっきりと違っていた点は、2009年の公演では前半を武花臉が、後半を銅錘花臉が演じ分けたのに対して、今回は全幕を通して武生である黄斉峰が一人で演じることです。

黄斉峰の力量は、まず第四〜六場の漢楚両軍の激突の場面で示されます。李左車の偽りの投降によって野戦へおびき出された項羽の軍と待ち受ける劉邦軍の最初の対決は、項羽の圧倒的な戦闘力によって楚に有利に進んだかに見えます。軽装の兵士たちによるアクロバティックな立ち回りもいかにも京劇らしい楽しみですが、それ以上に、靠旗を背に負った劉邦軍の重装将校が数人がかりで項羽と立ち合い、項羽の戟一閃で跳ね飛ばされる場面は迫力満点です。そのまま戟を振るって見得(亮相)を切ると直ちに追撃戦に移りますが、これは劉邦軍の罠。いったんは伏兵に気づいて兵を引こうとした項羽でしたが、正体を表した李左車の挑発によって劉邦軍の包囲網の中へ深入りし、忠臣・周蘭の自己犠牲によってかろうじて窮地を脱することになります。ここまでの前半は、暗転を巧みに用いたスピーディーな場面転換が続き、文字通り域を次ぐ暇がありませんでした。

休憩を挟んで第7場は、一転してじっくりと見せ、聴かせる場面。敗軍の将となった項羽を迎えた虞姫は優しく酒を勧め(項羽に合わせて自分も飲むのですが、くいくいと立て続けに3杯あおるように飲み干しました。虞姫はかなりイケる口だったようです)、疲労困憊した項羽を寝室へ送ると、一人見回りに出て行きます。ここで虞姫を演じる青衣・王長君の存在感は素晴らしく、虞姫によって歌われる南梆子(青衣や小生が唄う繊細な旋律の曲)の唱は、そのどこまでも高くよく通る声によって聴く者の心にしみ渡り、舞台上にない情景を脳裏にまざまざと浮かび上がらせました。しかし、既に垓下の城の外は漢の兵に取り囲まれて風前の灯。戻った虞姫から四面楚歌の状況を知らされた項羽は、今はこれまでと悟って愛馬・烏騅を愛おしみ、『史記』項羽本紀に記録されている有名な歌を歌います。

力拔山兮氣蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮柰若何

これを聞いて泣く虞姫と、その肩に手をかける項羽。このあたりの細やかな演技は、項羽役の黄斉峰が武戯一辺倒ではない総合的な役者であることを示しています。月琴の旋律が虞姫の心情を繊細に表現し、ついで打楽器が静かに一定のリズムを刻む内にいったん下手袖に入った虞姫は、魚鱗甲をまとって再び登場すると、剣舞を舞い始めました。この剣舞は梅蘭芳が導入したものだそうで、名曲「夜深沈」をバックに最初は緩やかに、しかし徐々に熱を帯びて、遂には二本の剣を風車のように左右に回し、海老反りになって悲壮な覚悟を示します。

虞姫が死に、項羽も烏江に死んで終幕。最後に自刎した項羽の姿が暗闇の中に金色のスポットライトに上から照らされ浮かび上がって終わる演出は天津青年京劇団のものと同じでしたが、このモダンな演出は必ずしもこの演目のスタンダードというわけではなく、字幕やナレーションを駆使できる日本(=外国)向けのもので、本来は項羽の死後に劉邦たちがわらわらと舞台上に揃って勝利を宣言するという演出であるようです。

ともあれ、数年ぶりに京劇を観てみると、これまでの観劇で見逃していた繊細な演技や演出のポイントが見えるようになっていることに気づきました。京劇といえばアクロバティックな「孫悟空」とつい短絡思考に陥りがちですが、さすがにそれはもう卒業して、人間ドラマとしての京劇の技法に目が向くようになっているのだと思います。というわけで、能楽鑑賞の合間には演目を選んで京劇鑑賞も復活させてみようかと思わされた、そんな公演でした。

配役

項羽 黄斉峰
虞姫 王長君
劉邦 陶新晨
韓信 万琳
李左車 張尭
項伯 高航
周蘭 / 呂馬童 劉志強
虞子期 許迎生
鍾離昧 謝愛民
陳平 / 閔子期 楊軼
馬丁 王鵬飛
劉邦の馬丁 張正春
夜回りの兵士
馬国祥 / 胡小毛 / 白亜東 / 侯立民

あらすじ

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