塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

法隆寺 祈りとかたち

2014/05/27

この日は平日ですが、前々から谷川岳へ行く予定で年休をとっていたところ、現地の天気が思わしくないために山行は延期にして、上野の東京藝術大学大学美術館へ前から気になっていた法隆寺展を見に行くことにしました。

平日だけあって、美術館周辺も美術館の中も人はそれほど多くなく、比較的落ち着いた雰囲気で展示に見入ることができました。やはりこうした展示モノは、平日に行くに限ります。

今回の展示は、東日本大震災から3年、新潟県中越地震復興10年というタイミングであることを踏まえて仙台・新潟・東京での開催となっています。法隆寺もまた、古くは天智9年(670年)の大火で伽藍を失い、下っては明治維新後の廃仏毀釈の嵐に耐え、さらに昭和24年(1949年)の金堂壁画焼損という災難を乗り越えて今日に至っている歴史を持っているわけですが、この展示ではその金堂の《毘沙門天立像》〈国宝〉と《吉祥天立像》〈国宝〉を筆頭に、飛鳥から鎌倉までの彫刻や絵画、工芸品などを展示するほか、フェノロサと共に行った夢殿開扉で有名な岡倉天心に始まる東京美術学校(現東京芸術大学)との交流を紹介しています。

公式サイトによるこの展覧会の見どころは、次の通り。

  • 法隆寺の至宝を総合的に紹介する、東京では約20年ぶりの大規模な展覧会です。
  • 法隆寺金堂(国宝)から国宝・毘沙門天、国宝・吉祥天が出陳されます。
  • 飛鳥後期の至宝・金堂壁画を、貴重な模写で再現します。
  • 岡倉天心にはじまる東京芸術大学との関わりをひもときます。
  • 近代美術の大家による法隆寺を主題とする絵画・彫刻を紹介します。

実際の展示はカタログの章立てとは異なり、まず地下2階の最初の展示室に法隆寺と東京美術学校の関わりを示す大正から昭和にかけての聖徳太子像や仏具が展示され、さらに近代日本美術の中に描かれた法隆寺と聖徳太子の姿が紹介されます。彫刻では高村光雲、絵画では安田靫彦、村上華岳、さらには杉山寧といった名前が私にはなじみのあるところです。

次の展示室がこの展覧会の中核展示となる国宝二体と、鈴木空如の手になる金堂壁画の焼損前の模写を展示した部屋。まず展示室に入ると、右手の壁に掛けられた巨大な模写に描かれた釈迦浄土図や菩薩像の線描の緻密さと穏やかにして鮮やかな彩色の美しさに見惚れます。鈴木空如は、明治31年(1898年)に東京美術学校に入学して仏画模写を志し、1人で金堂壁画模写に尽力した人物ですが、今回展示されているのは三期にわたる模写のうち昭和11年(1936年)完成の最も完成度の高いものだそう。そして、この展示室の奥まったところに仲良く並んでいたのが、承暦2年(1078年)に制作されたことが記録に残っている《毘沙門天立像》と《吉祥天立像》でした。金堂の須弥壇上では釈迦三尊像の左右に安置されるこれらの像は、いずれも像高が120cmほどと思ったより小さいのですが、ふくよかな顔の表情の穏やかさには引き込まれるものがあります。毘沙門天の方は、こころもち左足を前に出して身体をかすかにねじらせ、着甲して左手に戟、右手に塔。吉祥天は自然な立ち姿で左手に宝珠を載せています。そして特筆すべきなのは、その表面に残された彩色の美しさです。特に赤系統の色がきれいに残っており、文様も緻密なもので、その均整のとれた造形と相俟っていつまで見ていても見飽きることがありません。この二体に会うだけのためであってもこの展覧会に足を運ぶ価値あり、と言っても過言ではないでしょう。

金堂壁画の模写と国宝二体を見た後では、エレベーターで上がった3階の展示室の平安時代の四天王像や《阿弥陀如来座像》〈重文〉のぼんやりした顔立ちや身体の線にピンとこなかったのですが、最後に出会ったユニークな表情の舞楽面には思わず顔がほころびました。

ところで、最後に法隆寺に足を運んだのがいつだったかさっぱり記憶にないのですが、おそらく30年はたっていると思います。この展覧会の中でも強調されていたことですが、法隆寺の営みや法隆寺美術は、すべて聖徳太子信仰と密接に結びついたもの。いずれそのうち、聖徳太子の遺徳を偲びつつ再びあの伽藍の中を歩いてみたいものですが、果たしてそれはいつになることか……。