天鼓

2014/03/02

この週末は谷川岳一ノ倉沢の一・二ノ沢中間稜を狙っていたのですが、現地の予想気象条件はお世辞にもクライミング日和とは言い難く、数年越しで狙っているこの登攀企画は今年もあえなく潰えることになりそうです。そんなわけで空しく過ごす日曜日、午前中は近所のスポーツジムで心肺系のトレーニングをして、午後に観世能楽堂に足を運んでハッピーアワーチケットをゲットしました。ハッピーアワーチケットを狙う人は少なくないらしく、その発売開始時刻に観世能楽堂に着いてみると数名の行列ができていて、私が獲得した席は中正面の最後列でした。

仕舞四番はいずれも見応えがあり、特に「野宮」での静謐な中にも緩急織り交ぜた舞と「鞍馬天狗」の舞台を一杯に使ったダイナミックさとには目を見張りました。

天鼓

舞台の正先に、派手やかな朱色のスタンド(羯鼓臺)の上に金色の羯鼓を置いた作リ物が置かれ、笛の音と共にワキ・勅使(工藤和哉師)が登場します。オレンジ色の明るい厚板と白大口の上に紫地金文様の側次を重ねている通り、これが後漢の話であることはワキの名ノリの中で冒頭に明らかにされます。ワキが語るには、王伯・王母夫婦の一人息子である天鼓は母が天から鼓が下って胎内に宿った夢を見て生まれたところからそう名付けられたが、後に本当の鼓が天から降ってきて彼が打つと妙音が鳴り響いた。これを聞いた帝が鼓を召したところ、天鼓は鼓を抱いて山中に隠れたために、捕らえられて呂水に静められてしまい、一方、鼓は宮中に置いて打っても音がしなくなってしまった。このため、帝は父・王伯を召し出して鼓を打たせようと勅使を遣わしたものである。こういった趣旨のことを語ったワキは、一ノ松から揚幕に向かって王伯を呼びました。実は、ワキによる背景説明と王伯への呼び掛けの間に本来はシテによる一声・サシ・下歌・上歌と続く長い詞章があり、そこでは我が子を失った悲しみが縷々述べられているのですが、この日は小書《弄鼓之舞》に伴いここがばっさり削除されています。ともあれ、ワキの呼び掛けに応じて出てきた尉面の前シテ・王伯(木月孚行師)は、帝の宣旨により内裏に呼び出されたことを聞いて、勅命に背いた子の親であるから自分の殺されるのであろう、それも仕方ない、我が子のために殺されるのも本望であると咽ぶがごとく謡いました。いやいや、そういうことではないとワキは否定しますが、ワキに引かれるようにゆっくり舞台へ進んだシテは我が子の形見に帝を拝み参らせんと頑なです。それでも宮中に到着すると一度は怯んだ様子を見せたシテでしたが、大小前に着座して羯鼓をじっと見つめ、もし鼓の音が聞こえたならそこれこそ我が子の形見となろうと覚悟を決めました。地を走る獣、空を翔る翼まで親子のあはれ知らざるやから始まるクセは居クセ。ここまで一貫して老父・王伯の亡き子を思う心情が手を変え品を変えて謡われてきたのですが、ついにワキの求めに応じて立ち上がると、老の歩みも足弱くよろよろと羯鼓に近づき、撥を手にとって打ちました。すると打てば不思議やその声の、心耳を澄ます声出でて、げにも親子の證の声とシテの動きに合わせて小鼓の音。これを聞いた(舞台上にはいない)帝も哀れと思し召して、龍顔に御涙を浮かめ給ふぞありがたきと地謡によって謡われるうちに、シテは撥を取り落として大小前に戻ると、着座してモロシオリとなりました。ここにワキは、天鼓を弔う管弦講が営まれること、王伯にも宝が下されることを告げて、アイ・従者(山本則孝師)を呼んでシテを下がらせました。アイは、シテを後ろから大事に支えるような形でシテを励ましながら揚幕まで送り届けると、常座に戻ってシテに同情する台詞をひとしきり語り、さらに天鼓の由来を説明してから、ワキにシテを無事送ったことを報告。さらに、ワキの命を受けて弔いの管弦講が行われる旨を触れて、狂言座へ下がりました。このあたりで、「ん?これはもしや……」と思ったのですが、それは後ほど。

後場は、呂水の堤に天の鼓を据えての管弦講。つまり、正先に置かれた羯鼓臺は前場では阿房殿雲龍閣の中だったのですが、今は呂水の前に引き出されていることになります。初秋の風が吹き渡る夕刻の情景が風一声の秋の空、夕月の色も照り添ひて、水滔々として波悠々たりと美しく謡われる場面は、ワキの大きな聞かせどころ。その背景に太鼓が静かに入り始め、一声の笛が響くとともに大小の鼓に力がこもりだすと、黒頭をなびかせ、輝かしい半切の上に法被の右肩を脱いで唐団扇を手にした後シテ・天鼓の霊が橋掛リに登場しました。一ノ松まで進んだシテはあらありがたの御弔ひやなと若々しい声で謡い、ワキとの問答を経て唐団扇を後見に渡すと羯鼓臺の前に進み撥を手にして、管弦講への感謝を述べながら羯鼓を打ち出しました。ここからは、明るい調子での〔楽〕。小書《弄鼓之舞》はこの〔楽〕がより華やかなものになるのが特徴で、上述のとおり常には入らない太鼓が入り、笛が盤捗調に変わります。シテの長大な舞は歓喜に満ちて、舞台の広さを最大限に活かして廻り、舞い、拍子をリズミカルに何度も何度も踏み、袖を巻き、さらには一ノ松から羯鼓臺を見込む形を作り、さらには羯鼓臺の見所側の狭い空間をすり抜けて、最後に正中と目付との間を往復すると袖を巻いて撥を振るい、袖を戻したところで〔楽〕の終わりになりました。それでもシテの舞はまだ終わらず、地謡によるキリの詞章を聞きながら笛前から目付へ一気に進み、ついで常座に移動して足を小さく蹴上げ、下居して水と戯れる様を見せて、さらに舞台上を廻り足拍子や羯鼓を打つ姿を示します。その歓喜の舞は終わることを知らないようでしたが、しかし遂に夜明けとなって、シテは現か夢幻とこそ、なりにけれで常座で袖を巻いて留拍子を踏みました。

このように「天鼓」は、前場では子に先立たれた老父・王伯の悲嘆の描写が中心、後場は弔いを受ける天鼓の歓喜の舞が見どころであり、シテは全く異なる人格を演じ分けなければならないのですが、木月孚行師はこれ以上ないくらい見事に人格の描き分けを成し遂げていたと思います。上述の通り、小書《弄鼓之舞》によって前場の悲嘆の詞章が一部削除され、後場の〔楽〕が華やかさを増したために、全体としては後場に重心が移った構成になってしまっているのですが、それでも前シテ・王伯の嘆きと悲痛な覚悟とは十分に伝わってきましたし、王伯が打った鼓が妙音を響かせたときに我が子との感応の内に王伯がモロシオリとなる姿の哀れさが胸を打ち、そうであればこそ帝も涙を浮かべたという詞章の描写が実感をもって見所に受け止められたことでしょう。そうであるがゆえにこそ後場の〔楽〕が、これほどまでにエネルギッシュで若々しさに満ちた舞を見たことがないと言えるほどの歓喜の爆発を感じさせたのだと思います。

ところで、中入のところで少し触れた「ん?これはもしや……」ですが、それは、この曲と「藤戸」との類似性です。

まず基本構造が似ていて、いずれも真の主人公は後シテの霊ですが、前場ではその遺族(「藤戸」は母、「天鼓」は父。つまり真の主人公とは別人格)が前シテとして登場し、主人公の非業の最後を嘆いてみせます。これに対し、主人公の死の原因を作った者(帝や佐々木盛綱)が後悔して主人公を弔うための管弦講を催すというところも同じ。アイに前シテを送らせて、アイが丁寧に幕へ送り込んだ後、同情するところも同じ。しかし、相違点もあります。「藤戸」では前シテはなぜ我が子を殺したのかと佐々木盛綱に詰め寄り、後シテも佐々木盛綱への恨みを述べていますが、「天鼓」ではそうした恨みが表立って語られることはなく、前シテは我が子を失った悲しみのその先で鼓の音の中に我が子の存在を感じ取り、後シテはひたすら弔いに感謝して喜びの舞を舞うばかり。

なぜこのような違いが生じたのかは不明ですが、唐土のこととはいえ、帝に対して直接恨んだり祟ったりするのはさすがに憚られたということは、(あくまで推測ですが)理由にあげられるかもしれません。このために、共通して用いられている詞章忘れんと思ふ心こそ忘れぬより思ひなれ(忘れようと思う心の方が忘れないでいることよりもつらい)は、「藤戸」では後シテが佐々木盛綱に恨みを述べるところで使われますが、「天鼓」ではワキの訪問を受ける前の前シテの独白として用いられています。どちらにしてもこの言葉(「綾鼓」にも出てきます)は、狂おしいまでの人の心の闇に対する深い洞察力を作者が備えていたことを示しているように思えます。なお、いずれの曲も作者不詳とされており、世阿弥とする説もあるものの、「隅田川」とも通じる部分があることから観世元雅を指摘する声をあるようです。

配役

仕舞 右近 山階彌右衛門
経正クセ 寺井栄
野宮 坂井音重
鞍馬天狗 津田和忠
 
能「天鼓 弄鼓之舞 前シテ・王伯
後シテ・天鼓
木月孚行
ワキ・勅使 工藤和哉
アイ・勅使ノ従者 山本則孝
主後見 関根祥六
地頭 谷村一太郎
寺井宏明
小鼓 曽和正博
大鼓 佃良勝
太鼓 小寺真佐人

あらすじ

天鼓

天から降ったという鼓を帝に献上しなかったため、天鼓は命を奪われる。それきり鼓は鳴らなくなってしまうが、宮中に召された天鼓の父・王伯が鼓を打つと妙音を発する。心を打たれた帝により追善の管弦講が営まれると、天鼓の霊が現れ弔いに感謝し、鼓を打ち舞を舞って姿を消して行く。