塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

膏薬煉 / 葵上

2014/02/28

国立能楽堂(千駄ヶ谷)の企画公演で、狂言「膏薬煉」と能「葵上」。「◎働く貴方に贈る」と題して午後7時開演、ビジネスパーソンに優しい企画です。

膏薬煉

鎌倉の膏薬煉と京都の膏薬煉が、自分の膏薬こそ日本一であると張り合うお話。膏薬は薬品を脂やにに混ぜて練り、紙片または布片に塗って患部に貼ることで毒を吸い出す外用薬です。この「吸い出す」力の強さが膏薬の効能になることから、それぞれの膏薬の由緒語りが奇想天外なものとなります。

鎌倉の膏薬煉(奥津健太郎師)と京都の膏薬煉(野村又三郎師)はそれぞれ、相手の噂を聞きつけて旅に出ますが、偶然にその途上で相手と行きあいます。俄に松やに臭くなった!とお互いに言いながらきょろきょろしているうちに舞台上でぶつかって、そこから名乗り合い。鎌倉の膏薬煉に先に名乗らせて「ふーん!」と見下したような間の手を入れたり、自分の名乗りでは「都に隠れもない膏薬煉のだ〜い名人でおりゃる」と自慢したり、シテの野村又三郎師の自在な話術に引き込まれるうちに、鎌倉の膏薬煉の提案で自慢比べが始まります。まずは、膏薬の系図(由緒)を語り合いますが、鎌倉は「飛ぶように逃げて行く名馬・生月を吸い寄せたので、源頼朝から『馬吸膏薬』という銘をもらった」、京都は「内裏の門でつかえてしまった清涼殿の庭石にする大石を吸い寄せて運んだので『石吸膏薬』という銘をいただいた」と、どちらもいい勝負。続いて薬味(原料)を披露しあうものの、鎌倉は「空を飛ぶ胴亀、榎になった蛤、石の腸杯」、京都は「海底に生えた筍、六月十三日に降った雪の黒焼き、雷の睫」で、これも決着がつきません。

それならばと二人は膏薬を塗った短冊状の紙を鼻に付けて垂らし、これで相手を吸い寄せた方が勝ちという吸い比べを始めます。鼻先をつきあわせて、まずは鎌倉が「そーりゃ」と引くと京都はよろよろと吸い寄せられて「これはいかなこと」と狼狽し、もう一歩吸い寄せられてから二人で「そりゃそりゃ」と声を合わせぴょんぴょん跳ねながら脇柱の近くまで。もちろん京都も負けておらず、同じようにして今度はシテ柱まで鎌倉を吸い寄せました。それなら今度はねじり引きだと鎌倉が身体を回しながら吸えば、京都は天井を見上げた姿勢で身体を回転させられ、再び脇柱へぴょんぴょん。もちろん京都も、同じようにして鎌倉をシテ柱までねじ戻します。大きく仰向けになる姿勢で鎌倉が京都を脇柱へしゃくり引くと、最後に京都が横へ大引きにして鎌倉を正中へ吸い寄せ、ついに鎌倉はそこで回転しひっくり返ってしまいました。ここで勝負がつき、「勝ったぞ勝ったぞ」と下がっていく京都を引き留めて鎌倉は石につまづいただけだと強がりを言いますが、京都は意に介せず「勝ったぞ」と幕に向かい、鎌倉も「やるまいぞ」と後を追いました。

前半は二人の大風呂敷話の荒唐無稽さが面白く、後半は息の合った大げさな所作が見どころの曲で、野村又三郎(小三郎改め)師の話術の巧みさも久しぶりに堪能でき、文句なしに楽しい曲でした。

実演解説

引き続いて、舞台上に四人の能楽師が登場して実演解説「能の装束付け」。説明者は山井綱雄師で、装束を付けるのがこの後の「葵上」で照日の巫女を勤める中村昌弘師。ほかに二人が着付担当です。下着の上に浴衣を羽織って出てきた中村師は、浴衣を脱いで舞台中央に立たされとても恥ずかしそう。そんなことにはおかまいなく、山井師はきびきびと解説を進め、紅の襟を巻き、露芝柄の摺箔を重ね、腹込をあてて胸元にボリュームを作り、胴帯を締めさせます。山井師曰くこれだけでもサウナスーツ状態。次に中村昌弘師を座らせて馬の尾の毛で作った鬘を乗せ、二本の下掛(紐)でしばりますが、その締め具合は人によって好みがあるらしく、先代宗家は思い切りきつく締めさせたのに対し、山井師自身はきつく縛られて演能中に吐き気を催したことがあるそう。さて、長い黒髪の左右は内側に捻り巻くことで耳が隠れる形にし、後ろに垂らした髪を元結で縛ります。いよいよ出てきたのが唐織で、相撲の懸賞のようにして見所に柄を見せてくれましたが、色は紅入、そして金春流では段ではなく総柄をツレに用いるのが決まりなのだとか。再び立った中村師に唐織を羽織らせると、下前を内側へ折り込み、見頃の余分を胴帯に挟み込んで下前の長さを整え、上前の褄が斜めにくっと上がる形にしてから唐織紐で結びます。ここでも山井師曰く私たちはそんじょそこらの女性より裁縫ができます。下前を折り込んだところを針と糸で留め、白い水衣を着せるとその前も糸留め、さらに首が前に抜けないように首の後ろで鬘と襟を糸留め。頭が後ろに引っ張られる状態になるので、これもきついのだとか。ここで中村師は、立って歩いたり(お運び)座ったり(お座り)して、着付け具合をチェック。その後、鬘帯を付け、取り出された面(小面)に中村師が恭しく一礼してから面を掛けました。そして装束付けが終わった中村師が静かに立ち上がると、そこには恥ずかしそうに突っ立っていた男性の姿はなく、清楚な若い女性が佇んでいます。その雰囲気のあまりの違いに見所は一瞬息を呑み、ついで拍手が湧き上がりました。

最後に一人残った山井師が「葵上」の演目解説を行い、今日は日本人の心を思い出して、持って帰って欲しいという言葉を残して、実演解説は終了しました。いいことを言うなあ。でも私は、山井師が趣味で聖飢魔Ⅱのコピーバンドをやっており、ときどきミサ(ライブ)でデーモン閣下ばりに歌っていることを知っています。なぜなら、山井師自身が自分のブログでちゃんと宣伝しているから。

葵上

私が初めて能を観たのは、2005年のこと。その記念すべき最初の曲は、この「葵上」でした。ただし曲名は「葵上」ですが、主人公は葵上ではなく六条御息所です。『源氏物語』に数多登場する女性たちの中でも、六条御息所はとりわけ強い印象を残す存在でしょう。前東宮妃という高貴な身分に、美貌と高い教養を併せ持ち、それゆえの自尊心が自分を強く縛ってしまう。光の正妻・葵上への嫉妬に苦しみ、車争いで深く傷ついた六条御息所は、自分の暗い心を抑制できなくなったときに生霊となって葵上を苦しめ、現に戻ったときに身に付いた加持祈禱の芥子の匂いから自分の所業を悟っておののくのです。

謡曲「葵上」は、世阿弥が尊敬する近江申楽の犬王(道阿弥)が演じたことが『申楽談儀』に見えることから、世阿弥以前の作品を世阿弥が改作したものと考えられています。そして、六条御息所による葵上への祟りと、横川の小聖による調伏がストーリーの主旋律ですが、詞章の随所に生々しく立ち上る六条御息所の懊悩と最後の救済には、六条御息所という存在への作者の深い洞察と同情とが感じられます。

最初に後見の手によって正先に紅の小袖が置かれ、これが病床にある葵上を現します。ついで登場の囃子のないまま、無音のうちにゆっくりとツレ/照日の巫女(中村昌弘師)が橋掛リを進み、舞台を横切って脇座に着座。さらにこれも無音のうちに、ワキツレ/臣下(村瀨提師)が烏帽子・狩衣・白大口の大臣姿で現れて、常座で〈名ノリ〉。葵上に物の怪が取り憑いたので、梓の上手である照日の巫女を召し出したことを語り、地謡前に進んで着座すると、ツレに向かって急いで梓に御掛け候へ。「梓」とは、梓弓の弦を鳴らし、呪文を唱えて生霊・死霊を呼び寄せる呪法であり、呼び寄せられた霊は巫女の口を通して物を言う(口寄せ)ことになります。ここから、小鼓が弓弦を鳴らす音を模した一定のリズムを刻み、その上に時折大鼓が加わる呪術的雰囲気の囃子〔アズサ〕が鳴らされて、ツレが天清浄地清浄、内外清浄六根清浄という清めの言葉から始まる呼び寄せの歌を低く、しかし美しい抑揚で響くように唱え、笛のヒシギが入って〔一声〕に変わったところで、シテ/六条御息所(高橋忍師)が登場しました。泥眼面を掛け、紅無唐織を壷折にして足元に縫箔を見せ、一ノ松から車尽くしの詞章による〈一セイ〉を謡うと、舞台に進んでの〈次第〉浮世は牛の小車の、めぐるや報いなるらんに地取が重なります。引き続き、自分のつらい思い、恨み、恥じる心を語り継ぎながら、梓弓を探すように常座から辺りを見回しました。この周辺の詞章に「車」にまつわる言葉が多く出てくるのは、一つには車争いを想起させるためであり、もう一つには元々の(犬王の)演出においてシテが青女房を伴い車に乗って登場していたからです。

さて、ツレの東屋の、母屋の妻戸に居たれどもにかぶせるようにシテが強く姿なければ、問ふ人もなしと謡ってシオったところでツレは自身の人格を取り戻し、「誰ともわからぬ高貴な女性が破れ車に召されており、若い女房が牛もつけられていない車の長柄に取り付いてさめざめと泣いている」と自分の目に見えていることをワキツレに語ると、ワキツレも見当はついたようで、巫女を通してシテに名乗りを促します。シテは大小の前に着座し、シオリを見せながら六条御息所であることを明かすと、若かりし頃の栄華(雲上の花の宴、春の朝の御遊、仙洞の紅葉の秋の夜……)と落魄の今(衰えぬれば……)を思い、最後に口調強くかかる恨みをはらさんとて、これまで現はれ出でたる(なり)と語って恨みを地謡に引き継ぎます。地謡もまた我人の為つらければ、必ず身にも、報うなり。何を嘆くぞ葛の葉の、恨みはさらに尽きすまじと凄まじい恨みの言葉を大胆に緩急をつけながら謡い、とうとうシテはシオリの手の陰からあら恨めしや、今は打たでは叶ひ候ふまじと激情を迸らせ、扇を持って正先の小袖(葵上)に近づき一打ち打ち据えました。最初は止めに入っていたツレも、シテの心が乗り移ったように葵上への打擲に加勢の言葉を発し続けますが、ここは元の演出では青女房の役の謡であった模様。ともあれ、シテは常座から小袖を見ると、どこまでも直截的な嫉妬の言葉を地謡に引き取らせて自らは舞台を回り、拍子を踏み、扇を後見座に投げて両手を唐織の内に引き込むと、襟をつかんで一気に上に引き抜きました。歌舞伎の早替わりを連想させるような、鮮やかな変身!そして、唐織を被いた状態になって小袖に覆い被さるように覗き込んでから、後見座へ下がっていきました。

シテが自分を六条御息所と名乗ってからここまで、息をも継がせない一気呵成の展開に圧倒されっぱなしでしたが、シテが後見座で高く掲げた唐織の陰で面を変えている間に、舞台上ではワキツレの命を受けたアイ/従者(野口隆之師)がワキ/横川の小聖(福王和幸師)を呼び出し、招請に応じたワキは加持祈禱を始めました。加持祈禱を示すリズミカルな囃子〔ノット〕に乗ってワキが小袖の近くで祈り始めると、唐織を被いたシテはゆっくり立ち上がり、常座に進んでそこにかがみ込みます。そして、数珠を押し揉んで不動明王の慈救偈「なまくさまんだばさらだ(曩莫三曼多縛日羅赦)」を唱えるうちに囃子に太鼓が加わり、シテは身を起こして般若の面を露わにしつつワキを見つめ、唐織を胸の前に巻いてしばらく数珠の音を聞いていましたが、ついに打杖を振るってワキに襲いかかり、ここからは舞台と橋掛リをいっぱいに使ってのシテとワキとの戦いとなりました。いかに行者はや帰り給へ、帰らで不覚し給ふなよとワキを恫喝し、隙を見て葵上をも圧倒しようとするシテと、法力を信じて数珠を揉み祈禱し続けるワキとの争いは緊迫感に溢れ、ダイナミックなものでしたが、遂に不動明王の偈を聞いて、シテは打杖を捨てて常座に座り込み、両手で耳を塞ぎました。これまでぞ怨霊、この後またも来るまじとの地謡を聞きつつシテはゆっくりワキを見て立ち上がり、菩薩の来現もあって怨念を断つことができたことに感謝しながら常座で合掌すると、成仏得脱の身となりゆくぞありがたきとキリの謡を聞きながら、橋掛リを向いて留拍子を踏みました。

この日の「葵上」は、素晴らしい好演だったと思います。シテの謡の深さと舞や所作の確かさ・ダイナミックさはもとより、ワキもツレもそれぞれの存在感を十分に発揮し、囃子方と地謡が一曲を通して見事なサポートを見せていました。

ただ、2005年以来久しぶりに(と言うより、実質的には初めてに近いのですが)この曲を観てみて、六条御息所の嫉妬や無念といったものが、こんなに簡単に解消されていいのだろうかという根本のところの疑問が湧いてきました。古い曲である「葵上」は複式夢幻能の体裁をとっていませんが、六条御息所の恨み=執心が前場においては照日の巫女の梓掛けによって呼び出され、後場では生霊の本性を現して葵上に打ち掛かろうとし、そして、仏の導きによって成仏という結末は多くの夢幻能と共通の展開です。しかし、六条御息所は他の曲のシテの多くとは異なり、成仏を期待しているわけではなく、ただただ、自分の恨みの気持ちを晴らしたいと願っているのです。冒頭に書いたように、『源氏物語』の六条御息所は妄執に囚われた自分自身に葛藤を覚えており、この曲のシテも恨みを抱き続ける自分のありようをよしとしているわけではないのかもしれません。そうではあっても、割り切れない恨みの気持ちは一歩間違えれば自分自身を破滅に追い込みかねない強いもの。そうした人間の心の闇の力は、横川の小聖との短時間の対決で解消するような生易しいものとは思えません。むしろ「道成寺」のように、生霊は法力に破れて恨みと悲しみとを胸に抱いたまま幕へと飛び込んでゆくという結末であった方が私には納得がいくのですが……それでは六条御息所に救いがなさ過ぎる、と作者は考えたのでしょうか。

囃子方と地謡が幕や切戸口に消えた途端に、正面ど真ん中の三列目くらいで30代とおぼしき男二人がやおら立ち上がって、怒鳴りあいの喧嘩を始めました。かなり激昂していて、きっと上演中から無言でエキサイトしていたのでしょう。舞台上の演者も見所での不穏な雰囲気がわかっていたんじゃないでしょうか。原因は不明(肘掛けや足などでの領土侵犯?)。ともあれ「葵上」が余韻に浸るような曲趣ではなかった点が、不幸中の幸いでした。

配役

狂言和泉流 膏薬煉 シテ/都の膏薬煉 野村又三郎
アド/鎌倉の膏薬煉 奥津健太郎
実演解説 能の装束付け 山井綱雄
井上貴覚
本田芳樹
中村昌弘
金春流 葵上 シテ/六条御息所 高橋忍
ツレ/照日の巫女 中村昌弘
ワキ/横川の小聖 福王和幸
ワキツレ/臣下 村瀨提
アイ/従者 野口隆之
一噌幸弘
小鼓 幸正昭
大鼓 河村大
太鼓 徳田宗久
主後見 高橋汎
地頭 本田光洋

あらすじ

膏薬煉

日本一を自認する鎌倉の膏薬煉と京都の膏薬煉が互いの噂を聞きつけて旅立ち、道中で相手と出会ったことからどちらの膏薬が優れているか対決することにした。自分の膏薬の由緒と効能を自慢し合い、さらには薬味を吹聴するが、決着がつかない。そこで二人は膏薬を鼻に付けて吸い比べをすることにした。五分五分と見えた勝負も、最後に京都の膏薬煉が鎌倉の膏薬煉を吸い転ばせる。

葵上

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