MIWA(NODA・MAP)

2013/11/09

池袋の東京芸術劇場プレイハウスで、NODA・MAPの「MIWA」を観ました。タイトルが示すとおり、これは美輪明宏氏のこれまでの生涯を題材にした不可思議な芝居です。

エントランスには、このような巨大な牡羊のオブジェが……これは、何なんでしょうか?

今回の作品は存命の人物の生涯が主題なので、劇中の時間の流れは野田作品にしてはそれほど複雑ではありません。昨年観た「エッグ」では極めて複雑な時制の転変がありましたが、今回は16歳で東京のソドミアンバー「ヘルマフロディーテ」のステージに立つまでの前史が「ヘルマフロディーテ」で上演されている劇中劇の体裁をとっているというだけで、大きな流れは美輪明宏の人生を誕生から現在まで時系列に沿って辿るものとなっています。

舞台上の装置はシンプルで、ショーのためのステージにも、天主堂にもなる大きなセットがひとつ。最初にそこは、雲の上の世界となって、これから現世に生まれてゆく者たちに踏絵をさせ男に生まれるか女に生まれるかの仕分けの場となります。踏めれば女、踏めなければ男。ところが、MIWA(宮沢りえ)は男になりたくないのに踏絵が踏めず、男でも女でもない生き物=ヘルマフロディーテとして天上に留められることになります。そこへ聖母マリア様を首を締めた科で追われてきた、男でも女でもある化け物=アンドロギュヌス(古田新太)が乱入し、MIWAと絡まるように下界へ落ちてゆき、こうしてひとつの身体に二人の心を持つMIWAが誕生することになります。MIWAにはアンドロギュヌス=安藤牛乳が見えており、語り合うことも多いのですが、他人にはアンドロギュヌスの姿は見えず、MIWAがアンドロギュヌスに語りかける声はMIWAの独白と聞こえるという設定というのがミソ。小柄な宮沢りえの姿が見えていて、あの古田新太(しかも金髪・派手メイクでグロテスクと言ってもいいほどの圧倒的な存在感!)が見えていないという逆説的な設定が、この後の芝居を膨らませることになります。

1935年の長崎でのMIWAの誕生、母の死と継母の登場、遊郭の「愛の学校」。絵描きという妄想の仕事に就きたいというボーイに手渡される、赤紙という名の現実。強制堕胎と密告という時代の暗部。そうした時代背景の中、浦上天主堂の中で幼恋繋一郎(瑛太)との間に芽生えた同性愛の予感。

これらが「ヘルマフロディーテ」のショー(劇中劇)として演じられたところで、現実の世界に作家・雄川偶像=オスカワ・アイドル(野田秀樹)が登場し、今度はMIWAを妄想の海の底へ誘います。そこでオスカワは、自分の代わりに現実という罪を犯す者を見つけることでMIWAはいつまでも美少年でいられること、その「代わりに罪を犯す者」がアンドロギュヌスであることをMIWAに教えます。この概念、長崎という土地柄がキリスト教と深く結びつくことを強く思い出させます。

舞台は再び劇中劇に戻り、浦上天主堂の中での青年刑事と安藤牛乳の対話につながります。安藤牛乳が犯した罪は、同性愛であることに基づく殺人。その意味は、劇の最後に明らかにされますが、安藤牛乳は捕虜が収監されている刑務所に入れば絨毯爆撃でも助かると考えます。しかし、その言葉が引金となったように舞台上は1945年8月9日の長崎に変わり、その日の午前中の市街の情景が溢れ出してきた大勢の役者たちによって賑やかに演じられる背後で、ショーを見ていた進駐軍の兵士たちは爆撃機の操縦・原爆投下シークエンスを不気味に再現し始めます。目標確認、投下、そして爆発の瞬間、天主堂の壁に衝撃波が走り(これには心底驚きました。いったいどうやって実現しているのか?)、轟音の中で黒い大きな布が背後から手前に向かってゆっくりと覆い被さってきて、舞台上にのたうち回る市井の人々を包み隠してゆきました。長い間を経て、安藤牛乳の独白。

なんたって、ぴかどんは殺す相手を選ばない。いや選ばないんじゃなくて、選べない。そこのところが、俺なんかの人殺しとは格が違う。ていうか、ぴかどんはやっぱり殺人じゃない。だって俺は人を殺して逃げた。逃げたということは怖かった。罪を感じたんだ。だがぴかどんを落としたものは、誰ひとり逃げていない。堂々と、人前に姿を現して生きている。だから罪じゃない。

戦争が終わって最初に行った学校での出欠確認に、幼恋繋一郎の答はありませんでした。しかし、中学生になったMIWAに初恋繋一郎から届けられた手紙には「君は恋人」の文字。初恋繋一郎と一緒に見に行った映画の字幕に見た失った片割れを求めて男と女はひかれあうという文字に、ではなぜ男と男が惹かれあってはいけないのかと悩むMIWA。そして、後を追って上京したMIWAの前に現れた初恋繋一郎には、許嫁がいた。許嫁から「恋人」ではなく変人、いや変態と罵られ、安藤牛乳の助けも得られずに絶望しかけたMIWAですが、このときのMIWAの独白。

それから私は、あの日のように、生き残った者たちのように、あなた方が慕っていた十字架を背負うた耶蘇のごとく、倒れ、立ち上がり、まろび、よろめき、立ち上がり、そしてまた倒れた。出口のなくなった長崎の町を当てもなく歩いた日のように、あてどもなく東京の街を歩いた。死んでたまるか。こんなことで死んでたまるか。

衝撃波で破れ垂れ下がったままだった天主堂の壁(紙)を引きちぎり、のたうちながら絞り出すような声で「死んでたまるか」と語り続ける宮沢りえの姿は圧巻でした。こうして「死んでたまるか」と東京の街を彷徨ったMIWAが「美少年募集」の貼紙を見つけたことで劇中劇は終わり、MIWAは現実世界の中で「ヘルマフロディーテ」からシャンソンの殿堂「倫巴里」へ移籍することになりました。後から思えば、この劇のテーマはここまでで語り尽くされている感もあるのですが、芝居はまだまだ続きます。

「倫巴里」で名声を得たMIWAが出会った赤絃繋一郎と、兄を愛する繋一郎の妹まりあとの三角関係は、赤絃繋一郎を主役とする映画『天草四郎の耐えられない存在の分かりやすさ』(←天草四郎・柳生友矩・将軍家光の三角関係の話。『存在の耐えられない軽さ』の本歌どり?)の撮影が進む中で抜き差しならないものになってゆき、一方、閑古鳥が鳴き出した「倫巴里」の梃入れ策として導入されたショー『満面の告白』(←美少年天草四郎を慕って原城に立て篭る同性愛者たちの物語)は警察が介入する騒乱となってしまいます。その間に、ゲイであることを家族に責められて首を吊るギャルソンの挿話が置かれた上で、MIWAとまりあの引っ張り合いの中に心を引き裂かれた赤絃繋一郎は、自分自身を交通事故死へと追いやります。

いつもここに来る。あの日の長崎の街に。私は、男に生まれた。ただそのことだけで十字架を背負わされた耶蘇になった。耶蘇は十字架を背負って、何度崩れ落ちて、そして立ち上がったんだったかしら?ねえ、安藤牛乳……こんな日に限って、お前はいつもいなくなる。いなくなって、私から歌を奪う。

MIWAの底知れない孤独が、観る者の胸を打つ場面です。しかし、そんなMIWAを妄想の海の底へ誘ったオスカワアイドルは三島由紀夫となって市ヶ谷に消え、同性愛をなじった母を殺した殺人の罪を抱えて数十年にわたりMIWAに寄り添う影だった安藤牛乳もまた、MIWAのCDを詰めた小さいボストンバッグを抱えて路上で死んでいたことを青年刑事から告げられます。

上述のとおり、アンドロギュヌスは天上界にあるときに聖母マリア様の首を締め、そのことで追われていたことが劇の冒頭で語られています。この伏線が、最後の安藤牛乳の死につながる大きな環状構造にまず息を飲みますが、安藤牛乳が、冒頭に書いたようにMIWAの「代わりに罪を犯す者」だったのであれば、母殺しの罪は実はMIWAのもの。劇中劇の中でもMIWAは彼の母は二度死んでそのたびに継マリア、継々マリアと生まれ変わり、ついに継々マリアは夫に対してMIWAを東京へうっちゃるように頼んでいますし、首を吊ったギャルソンのエピソードも、同性愛と家族愛との相克を端的に示す挿話です。そしてそれ以上に、MIWAが同性愛を自覚し始めた少年の頃から今日に至るまで周囲との間で生じ続けたあらゆる葛藤(罪)を、ときにMIWAの話し相手として、あるいは代弁者となって引き受けてきたのが安藤牛乳=アンドロギュヌスだったのでしょう。その罪の大きさが安藤牛乳の容積を超えたときに、アンドロギュヌスに死が訪れたのではないでしょうか。しかし、安藤牛乳を失って一度は絶望しかけても、MIWAはステージに立つことをやめようとはしない。この劇のラストシーンは廃業することになった「倫巴里」のラストステージに向かうMIWAの姿で、三輪さんて、生きていてつらいことなんてなかったでしょう?と問われたMIWAはあるわけないでしょうと答えていますが、そうではなかったことはこの劇を観てきた者なら誰にでもわかります。そして、MIWAは好きだった『あの人』を忘れてしまった、と言い残してステージに向かいます。

時が愛を消すことはない。けれども、時は記憶を消してしまう。愛していたという記憶を、無惨にも時は消してしまう。そして誰かが座っていた、不在の椅子だけが、そこにのこる。忘れてしまった。忘れてしまった……忘れてしまった。

『あの人』とは、誰をさすのか?たぶん、アンドロギュヌスも含め、MIWAの人生と関わり、そして先に逝ってしまったすべての人のことを指すと考えてよいのでしょう。もしかすると、幼少期のMIWAを育んだ長崎の原風景そのものも、そこに含まれているかもしれません。そんなことを考えているうちに、舞台上では美輪明宏の歌声で高らかに「愛の讃歌」が歌われ、そして舞台は暗転していきました。

なんといっても、宮沢りえの演技が非の打ち所のないものでした。少年期の幼い様子から、青年期の挫折と葛藤を経て、晩年の大スターの風格まで、MIWAの一生を完璧に演じきりました。宮沢りえと二身同体となる古田新太も、相変わらずの存在感。瑛太と井上真央も、舞台役者としての力量を発揮してくれたと思います。

野田秀樹の戯曲なので、やはり笑いの要素がいくつも盛り込まれていて、たとえばMIWAが歌の力量を示すために「はあ〜!」と朗唱するところでは実際に声を出しているのは安藤牛乳、でも手を前に差し伸べて輝かしい表情を作っているのはMIWAだったりしますし、長崎弁で踏絵を踏めないために死ぬ者のあることを嘆くMIWAがなぜか標準語をちゃんぽんにしてたかがこれは絵ばい、よっぽど踏みにくい絵やったとやろか。そこで、踏絵師は思いました。踏絵じゃいかん。踏んでえ〜を描かんば。そのマリア様を見たら、踏みたくて踏みたくて仕方のない、夏の海に薫る風のように、人を誘惑する絵。それが描ける、そんな踏絵師に私はなりたいと宮沢賢治を気取ったり、初恋繋一郎と一緒に見る映画の字幕が抱腹絶倒だったり。曰く。

  • 愛することを教えてくれたあなた。今度は忘れることを教えてください。
  • 男と女の仲は、夕めしを二人で三回食べて何も起こらなかったらあきらめるんだ。
  • 人間は判断力の欠如で結婚し、忍耐力の欠如で離婚し、記憶力の欠如で再婚する。

うーん……深い。かたや、「ヘルマフロディーテ」でMIWAが通訳に対して皮肉に放つ君は、自分のことを自分の言葉では、何一つ話せないんだね『目の前』を現実とよび、『机の上』を妄想と呼ぶんだ。『目の前』も『机の上』も、すぐそこにあるのにねというオスカワの台詞(この言葉が、オスカワを三島に変えたのだと思います)、無償の愛は逆よ、子供が母に与えている愛のことというMIWAの述懐など、痛切な言葉も随所に散りばめられています。

なお、この芝居を観るにあたっては、以下の人々の略歴を予備知識としてWikipediaで仕入れておくことを勧めます。

  • オスカー・ワイルド
  • ジュディ・ガーランド
  • 赤木圭一郎
  • 三島由紀夫

そしてもちろん。

  • 美輪明宏

キャスト

MIWA 宮沢りえ
赤絃繋一郎 瑛太
マリア 井上真央
最初の審判 / 通訳 小出恵介
ボーイ 浦井建治
負け女 青木さやか
半・陰陽 池田成志
オスカワアイドル 野田秀樹
安藤牛乳 古田新太