レーピン展

2012/10/08

Bunkamura ザ・ミュージアムで開催されている展覧会「国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展」を見に行きました。この日は、この展覧会の最終日です。

イリヤ・レーピン(1844-1930)は、彼と親交があったムソルグスキーやトルストイと同時代の、帝政ロシア最後の時代を代表する画家で、その主題は社会の底辺に暮らす人々の暮しや革命運動への共感を示す一方、ロシア民族の精神性を代表する歴史画や、さらには高い社会的地位にある人物の肖像画に至るまで多様でありながら、その全てに共通する卓越した写実技法と大胆な構図とによって孤高の地位を築きました。この展覧会は、世界最大のレーピンのコレクションで知られるモスクワの国立トレチャコフ美術館の収蔵品による回顧展です。

美術アカデミーと《ヴォルガの船曳き》
最初のコーナーは、1870年前後の若きレーピンの作品群。19歳で帝国美術アカデミーに入り研鑽を積んだレーピンの名を一躍有名にした《ヴォルガの船曳き》(1873年)にまつわる習作や別バージョンを集めていました。残念ながら《ヴォルガの船曳き》そのものは今回の出展作品の中には含まれていませんが、参考図版が展示されていることで、習作と完成作との違いがわかるようになっています。その参考図版では、牛馬の替わりにヴォルガ川に浮かぶ船を曵く人夫たちの一人ひとりがはっきりした個性を持ち、とりわけ左から4人目の労働者が鑑賞者を見つめる厳しい視線に胸を突かれますが、習作の段階ではむしろ船曵きたちの一団を暗いひとつの塊として、労働の厳しさとその厳しさに負けない船曵きたちの力強さが強調されていました。会場にはこの作品のための素描も何点か展示されていましたが、たとえば紙に鉛筆で描かれた《ヴォルガ川のシリャーエヴォ渓谷》は強い光の下での白黒写真のように鮮明で、これだけで作品として十分な魅力があると感じられました。また、《ヴォルガの船曳き》と同じ年に描かれた《ウラジーミル・スターソフの肖像》の完成度も驚くばかり。この肖像画というジャンルは後のレーピンの画業の大きな部分を占めることになりますが、既にこの時点(レーピン29歳)で完成された技法を身に付けていたことが窺えます。
パリ留学:西欧美術との出会い
美術アカデミーの宗教画による卒業制作で留学の資格を得たレーピンはパリに1873年から3年間滞在し、レンブラントの光と影のコントラストの強調や、外光の効果を素早いタッチで掬いとる印象派の画法を身に付けました。とりわけレンブラントの影響は、このコーナーに展示された《祈るユダヤ人》(1875年)に顕著です。
故郷チュグーエフとモスクワ
パリ留学を予定の半分の年数で切り上げてロシアに戻ったレーピンは、その後の最初の冬を故郷のチュグーエフで過ごし、1877年から5年間はモスクワで次々に名作を完成させていきます。このコーナーでまず目を引くのは《長輔祭》(1877年)。ロシア正教の聖職名を題名とするこの作品に描かれているのは、極めて力強い眼差し、白く長いあご髭と無骨な手指を持つ聖職者の姿で、黒い衣裳に身を包んでいても全身から放たれるオーラは、ロシアの歴史そのもののエネルギーを示しているよう。また、忿怒の形相で昂然と立ち尽くす女性を描いた大作《皇女ソフィア》(1879年)は17世紀末の史実に題材をとった歴史画ですが、ここでも主人公の異様なまでの存在感が見る者を圧倒します。同じく歴史画の部類に入る《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》もレーピンにとって重要な作品のひとつで、この展覧会ではいくつかの習作が展示されていましたが、服従を勧告するスルタンに対し辛辣な嘲笑を込めた手紙で応じるコサックたちの群像に見られる豪放さは、他の絵とは少し異質な賑やかさと明るさが感じられました。同様に群像を描いた作品である《クールスク県の十字架行進》も熱気に満ちた絵画で、これも本図は展示されておらず習作のみでしたが、その中に描かれた一人の男を肖像画として描いた《背の曲がった男》(1881年)の充実度を見ると、《クールスク県の十字架行進》が単に宗教的行事を描くことを目的としたものではなく、そこに参加している多様な人々のドラマを描こうとしていたことがわかります。
ところが、こうした力作と肩を並べてこのコーナーに配置されていた、家族を描いたいくつかの作品には、とてもリラックスしたレーピンのもう一つの顔が覗きます。《あぜ道にて―畝を歩くヴェーラ・レーピナと子どもたち》(1879年)に描かれているのは、ライ麦畑の中を歩くレーピンの妻と小さな娘たち。そのラフで軽やかなタッチだけでなく、パラソルをかざす女性というモチーフからも印象派の系譜を容易に連想させますが、これはレーピンにとっては実験的な意味合いがあった模様。そしてこのコーナーの白眉と言えるのが、ポスターやフライヤーでもメインで用いられた《急速―妻ヴェーラ・レーピナ》です。確かに、この作品は素晴らしい!椅子に柔らかく沈んでまどろむ若く美しい妻の姿を練達の筆致で描いたこの作品からは、まるで静かな寝息が聞こえてくるかのようですし、ほんのりピンク色の頬には血が通っているよう。
他にも、いくつかの肖像画がこのコーナーを充実したものにしていましたが、最も目を引いたのはやはり《作曲家モデスト・ムソルグルキーの肖像》です。有名な作曲家の破滅的な死の数日前に入院先の病室で描かれたこの作品は、アルコール依存症に蝕まれた作曲家の姿を一切の美化を排して描写していますが、それでいて不思議な美しさと意思の力とが感じられました。
「移動派」の旗手として:サンクト・ペテルブルク
美術アカデミーに対するアンチテーゼとして1870年に発足し、巨匠イワン・クラムスコイの指導の下、リアリズムと巡回美術展を活動の特徴とした「移動派」の移動美術展覧会には、1878年以降レーピンも作品を出展し続けました。流刑になっていたと思われる男の不意の帰還に驚く家族の様子を大胆な構図で描いた《思いがけなく》(1884-1888年)がまずは目を引きますが、《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》の習作と完成作の図版もまた、十分に劇的。さらにここでも、いくつかの重要な肖像画が並びますが、とりわけ《文豪レフ・トルストイの肖像》(1887年)に描かれた知の巨人トルストイの穏やかな肖像画は、しばらくの間その前に足を止めないわけにはいきませんでした。
次世代の導き手として:美術アカデミーのレーピン
1894年から美術アカデミーで教鞭をとったレーピン。《ゴーゴリの「自殺」》(1909年)の狂気を孕んだ表現には息を飲みましたが、むしろこの最後のコーナーで目を引いたのは《日向で―娘ナジェージダ・レーピナの肖像》。20代半ばに達した次女ナジェージダが、戸外の陽光の中で黒い日傘の下に、父である画家を微笑みを浮かべて見つめる姿を、ラフな、しかし愛情に満ちたタッチで描いており、何とも言えない親しみを感じました。
その後、レービンが晩年を過ごした地は1917年のロシア革命とフィンランド独立によってフィンランド領に編入され、レーピンはそのままフィンランドにおいて生涯を終えたそうです。

上述のとおり、《ヴォルガの船曳き》《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック》《クールスク県の十字架行進》《1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン》といった重要な作品が習作のみの出展になっていた点は少々残念ではありますが、完成作の参考図版を展示してその重要性をしっかりと伝える展示姿勢には誠実さを感じましたし、ここに出展された80点あまりの作品のいずれも(素描ですら)見応えのあるもので、それら全てを通して見れば、非常に充実した展覧会であったと言えるでしょう。