THE BEE(日本バージョン)

2012/05/16

NODA・MAP番外公演「THE BEE」(日本バージョン)を、水天宮ピットで。この作品は2007年に、日本バージョン英語バージョンの両方を観ていますが、今回は宮沢りえが小古呂の妻役を演じる点がポイントとなります。

開演前のBGMが1970年代の歌謡曲である点、舞台上が薄茶色の模造紙で極めてシンプルに構成されている点、4人の俳優が主人公の井戸を演じる野田英樹を除いていずれも複数の役を瞬時に切り替えながらストーリーを進める点など、あらゆる点で2007年の日本バージョンと作りは同じ。必要最小限の小道具とキャストとに対し、観客が野田英樹言うところの「見立て」により最大限の想像力を引き出されることで成り立つ芝居になっていて、同じ脚本と同じ小道具ならそのままでは過去と同じものしか生まれませんが、そこに宮沢りえ・池田成志の新しい二人の演技と、前回と同じキャストである野田英樹・近藤良平の演技の新味が加わってどこまでの変化が得られるかが、この戯曲を再演したことの意味につながってくるわけです。

そして、観終わってみればやはり、宮沢りえは強烈な印象を残していましたし、野田英樹の演技にも突き抜けた凄みが加わっていて、2007年の初演時の舞台と比べて一段の高みに達していたように思いました。

宮沢りえは、冒頭の井戸邸前での警察官とマスコミの切り替えでも既に彼女ならではのシャープなオーラを醸し出していましたが、やはり何と言っても小古呂宅内での小古呂の妻の存在感。あばずれたストリッパーとしてのすばらしい色気があり、適度に品が悪く、それでいてひとかけらの良心(井戸にすまないと思う気持ち)と母親としての息子への愛情がないまぜになった人格が見事に組み上げられていて、目が離せなくなります。その生身の女性である小古呂の妻が、支配の下で徐々に母性を失い井戸に対して従順になってゆく点が、この芝居の怖さのひとつ。

一方の野田英樹も、当初の善良な市民ぶりが小古呂宅内で安直刑事を殴り倒してからは文字通り豹変し、小古呂宅を恐怖で支配していくその振る舞いのブレない方向性が尖鋭的。井戸(に代表される一般市民)の中に元来備わっている暴力と支配の本能が、自分の家族を人質にとられるというアクシデントと自らも閉鎖された空間に立て籠るというシチュエーションとによって解き放たれ、何度か激しく放たれる拳銃の弾のようにどこまでも突き抜けていく様子を、野田英樹はとりわけ振幅の大きな感情表現と身体表現とで汗だくになりながら演じきっていました。途中に差し挟まれる、井戸が小古呂の息子と無邪気に(?)遊ぶ場面や、自分の息子の切断された指を入れた封筒を最初に受け取って声を殺して泣く場面に見られる人間性も観客にとっては救いにならず、かえってその後に続く小古呂の息子や妻の指の切断をより冷酷なものとするばかり。

改めて、怖い芝居だと思いました。

ところで、2007年に観たときには劇中及びラストシーンで登場する蜂(THE BEE)の意味がよくわからなかったのですが、プログラムの中での野田英樹とKathryn Hunterとの対談の中では、野田英樹は「井戸がコントロールできないもの」として蜂を登場させたという趣旨のことを書いています。とすれば、劇場型犯罪でスターとなった井戸の立て篭る小古呂宅が徐々に世間の関心を失い、儀式めいた暴力のリフレインも最後には舞台を構成していた紙の中に丸め込まれゴミのように捨てられてゆく、そのラストシーンを覆い尽くした無数の蜂の羽音は、小古呂宅という小宇宙を支配した井戸も結局外界の無関心の中に埋没してゆくちっぽけな存在へと還元されてしまったことを象徴していると考えることもできそう。

そこまで理屈っぽく解析しようとしなくても、いいのかもしれませんが……。

キャスト

井戸 野田秀樹
小古呂の妻 / リポーター 宮沢りえ
安直 / 小古呂 / 小古呂の息子 / リポーター 近藤良平
百百山警部 / シェフ / リポーター 池田成志