雁礫 / 融

2011/12/16

国立能楽堂の定例公演で、狂言「雁礫」、能「融」。友枝昭世師の「融」は、しっかり能を観るようになったここ三年間の中でも、とりわけすばらしい観能体験となりました。

雁礫

素袍に烏帽子、弓矢をたばさんで登場した大名はいかにも横柄な感じで「隠れもない射手でござる」と威張っていますが、実は弓の稽古を始めたばかり。水辺の雁(正先に置かれた洞烏帽子)を見て狙いを定めるものの、相手が動くために狙いが定まらず、次に狙いをつけた雁は、橋掛リに現れた使いの者のアンダースローの礫にあっさり倒されてしまいました。さっさと雁を小脇に抱えて立ち去ろうとする男に対し、おさまりがつかない大名は、それは自分の雁だと主張。もちろんその雁には矢傷などないのですが、自分が狙い殺したのだと無茶苦茶を言っています。激高した大名が男に矢を向けたところに割って入ったのは目代ですが、どうやら「様子を見れば弓は下手そうな」と見てとって、死んだ雁を狙い、命中したら持ち帰るようにと大名に言います。そんなアホな!と怒る男にどうせ当たりっこないからとなだめて納得させたところで、大名は慎重に弓矢をチェック。弓の弦をびんびん鳴らしたり、矢羽根を点検しているうちにとれてしまって慌てて直したりと時間をかける大名に、男はイライラして「早う射させませ!」と声を掛けましたが、どうやら大名は内心自信がないようで、やっと弓を構えたと思ったら、目代や男をチラ見しつつへっぴり腰でどんどん雁に近づいて行くので男があわてて制止。そんなことを二度も繰り返した挙げ句、やっと大名が放ったつもりの矢は手元にぽろりと落ちてしまい、男は喜んで雁をとり上げます。すると大名はせめて羽を一枚くれと懇願するのですが、男はにべもなく断り、「ならんぞ」「やるまいぞ」と橋掛リを下がっていってしまいました。

大名の、どこまでも横柄でありながら、弓を構える姿のたどたどしさや最後の懇願の卑屈さ(でもやはり偉そう)の表現に風刺の面白さが味わえる小品。シテの達者な芸に最初から最後まで笑わされた15分間でした。

融 

世阿弥作の切能。六条河原院に住む源融みなもとのとおるは、歌に詠まれる陸奥の国・千賀の塩竈の情景を自分の邸宅に再現するために浦から海水を運ばせて塩焼きの風情を楽しんだと『伊勢物語』に記されており、融大臣の没後に荒廃した河原院を訪れた紀貫之は

君まさで煙絶えにし塩竈の うらさびしくも見えわたるかな

と詠っています。この荒廃した河原院跡を訪れた旅僧が、月の光の中で融大臣の霊と出会い、過去の栄華を垣間見るというのが、本曲。融大臣は嵯峨天皇の第八皇子で9世紀の人ですから、世阿弥との間には600年ほどの時の隔たりがあります。

蕭条と寂しく吹きわたる名ノリ笛、角帽子に絓水衣という定番の出立のワキ・旅僧(宝生欣哉師)は、道行の後に六条河原院への着キゼリフ。そして、一声の囃子は空気を引き締める緊迫した笛から、静寂の中に何かが立ち上がってくるような大小鼓の響き。そこへ登場した前シテ・老人(友枝昭世師)は、黄色系の水衣に腰蓑を着け、面は三光尉。肩に担桶を担って静かに常座へ進むと、一声月もはや、出汐になりて塩竈の、うら寂びまさる、夕べかな。この一声の途中で、前後の桶の緒を放し、すとんと垂らします。シテの謡は消え入りそうな、それでいてよく通る不思議な声で、一声の後にサシと下歌を省いて、上歌の中に重なる年月の中に老いた身の上を嘆くと暫く休まばやと思ひ候と桶を置きます。

そこにワキがシテに問い掛けて、問答。ここは海でもないのに、汐汲みとはおかしいではないか、と不思議がるワキにシテは、ここは六条河原院、陸奥の塩竈を移した場所であるから不思議はないと諭します。これに納得したワキが中正面の方を見やってするとあれは籬が島(を模した築山)か?と尋ねれば、シテもこれに応じて融大臣が常々舟を寄せて遊舞されたところだと解説しますが、既にこの言葉が遠い昔の話ではなくあたかも自分が見てきた事柄のような口調。と、そこでシテは脇正面を向いてや、月こそ出でて候へ。ワキもまた唐の詩人・賈島の五言律詩にある「島宿池中樹、僧敲月下門」(←推敲の故事で有名)の連想から眼前の光景が身近に感じられると述懐すると、シテの言葉や所作からワキとの間に心が通い合った様子がほのぼのと伝わってきます。

塩竈の浦を都に移した謂れを語ってほしいというワキの求めに応じて、シテは正中に下居してじっくりとした〈語リ〉。融大臣の風流三昧の暮しも、その没後には後を継ぐ者もなく屋敷は荒廃するばかり。そのうら寂しく荒れ果てた様子に自分の老いを重ねたシテはあら昔恋しやと左膝を抱いて面を伏せると、地謡の上歌恋しや恋しやと慕へども願へども、かひも渚の浦千鳥、音をのみ鳴くばかりなりを聞いてモロジオリ。

ワキはただ今の御物語りに落涙仕りて候と同情すると、シテの気を引き立てようとするように辺りに見える名所の教えを乞います。二人舞台に立って、あれは音羽山?さらに清閑寺、今熊野神社、稲荷山、藤の森に深草山。脇正面、橋掛リ、切戸と次々に向きを変えながら案内する地名尽くしの内にシテの声はだんだん生き生きとしてきて、ワキの肩に手をやって名所を指し示す姿は内面から輝きが溢れてくるよう。興に乗り、古今集の歌を引用してあれこそ大原や、小塩の山も今日こそは、ご覧じそめつらめと美しく謡ったシテでしたが、月が昇るのにあわせて満潮の汐時を過ぎたことにはっと気づいたシテは伸び上がって両手を打ち合わせる印象的な所作を見せると、担桶を担げて正面に出、桶を舞台前端から下におろして汐を汲み、引き上げた左右の桶の中に月を見てから、担桶を舞台に置いて橋掛リに向かって始めは足早に、しかし橋に掛かってからはゆっくりと、地謡と同期しつつ下がってゆきました。

長裃姿の所の者によるアイ語りは、凄い長さ。ワキの求めに応じて融大臣の故事が語られますが、浦で汐を汲む者千人、運ぶ者千人、薪を取り汐を焼く者千人、合計三千人の人足を毎日使役したという豪遊話には、つい最近世間を騒がせた某製紙会社御曹司のギャンブル狂いを連想してしまいました。

それはともかく、アイの〈語リ〉が終わってワキとの問答になるところから笛が入り、それはワキの上歌に続きます。アイの言葉から老人が融大臣の霊であろうと悟ったワキが、夢での対面を心待ちしつつ旅寝に入ると、ヒシギの笛、太鼓が入って出端の囃子。揚幕が上がって一ノ松に進んできた後シテ・融大臣は、初冠に月光を白く照り返しているような美しい狩衣、紫地の指貫のやんごとなき姿で、面はノーブルな中将。忘れて年を経しものを、また古へに帰る浪の、満つ塩竈の名にしおふ、今宵の月を陸奥の、千賀の浦曲の遠き世に、その名を残す大臣、融の大臣とは我が事なりとワキに語りかけます。その声は貴人らしく高く、そして強く、前場の老人とはまったくの別人のよう。600年の時を越えて現れた存在であることを、この一節だけで強く納得させるものでした。

そして名月に舟を浮かめ月宮殿の白衣の袖も、三五夜中の新月の色光を花と散らすよそほひなど月光のモチーフが散りばめられた謡の中を舞台を広く使って舞ったシテはあら面白や曲水の盃、受けたり受けたり遊舞の袖と曲水の宴で流されてくる盃に見立てた月影を扇で汲む所作を見せると、早舞に入ります。笛は調子が上がった流麗なものとなり、大小鼓と太鼓も存在感を増して、シテは扇を手に舞台を大らかに、ある種の浮遊感を漂わせて舞います。小書《窕》により橋掛リに入ったシテは、ややテンポを落として三ノ松へ進み、そこでくるくると円を描くように舞った後に、月光を受け止めるように(あるいは遮るように?)右袖を巻き上げてクツロギ。そして、ゆっくり戻ってきたシテは舞台上でさらに激しいひとしきりの舞。

最後のロンギで地謡とシテとの間に月に寄せての問答が交わされ、謡いながらの舞の中に劇的な足拍子や「水中の遊魚」「弓の影」などの写実的な型が織り込まれて、やがて鳥の声、鐘の音に月もはや影傾きてと雲ノ扇をしたシテは、正面で左袖を巻き上げると月の都へ入ってゆきます。終曲は、シテは一ノ松に静かに立って、脇正面を見込む形となりました。

月の出に始まり、月の入りに終わる一夜の中で、月光に照らされた六条河原院跡に幻のように立ち上がった融大臣の栄華の様子を、友枝昭世師が圧倒的な説得力で舞い謡ってみせてくれた素晴らしい舞台。今までに私が観た中でも、屈指の好舞台であったと思います。見所の誰しもが、同様に深い感動を共有したのでしょう。シテが下がるときにもワキが下がるときにも拍手を先導しようとした方がひとりいたのですが、誰も追随せずに余韻を味わい、囃子方が揚幕の中に消えて行こうとするときにようやく控えめな拍手が湧き上がりました。

配役

狂言(和泉流)「雁礫」 シテ・大名 小笠原匡
アド・使いの者 吉住講
小アド・目代 野村扇丞
 
能(喜多流)「融 前シテ・老人
後シテ・融大臣
友枝昭世
ワキ・旅僧 宝生欣哉
アイ・所の者 野村万蔵
主後見 中村邦生
地頭 香川靖嗣
杉市和
小鼓 横山晴明
大鼓 柿原崇志
太鼓 観世元伯

あらすじ

雁礫

狩りに来た大名が雁を射ようとしたところ、突如現れた男が石礫で雁を捕らえてしまう。悔しがった大名が、自分が睨み殺したのだから自分のものだと言い張るところへ仲裁人が現れ、大名に今一度雁を射ることができたならば大名のものとしようといい、先ほどの雁を置いて射させる。しかし、矢は見当違いの方向へ飛んでいき、男は雁を持って立ち去っていく。

融 

東国から都へ上って来た旅僧が、六条河原院の廃墟で休んでいると、田子を担った汐汲みの風情の老人がやって来る。海辺の土地でもないので不思議に思い尋ねると、老人はここは昔、源融公が広大な邸宅の庭内に陸奥の塩釜の景色を移した所だと答える。そして融公は、日毎に難波の浦から海水を運ばせ、塩を焼かせる豪奢な風流を楽しんだが、その後は相続する人もなく荒れ果てている事を物語り、僧に辺りの名所を教え、やがて汀で汐を汲むかと思うと、姿は消え失せる。僧は、丁度来合わせた六条辺りの者から融大臣の事などを聞かされ、先刻の老人というのは融公の霊の化身であろうかと弔いをするよう勧められる。その夜、僧は再び奇特を見たいものだと旅寝をすると、融大臣が貴人の姿で現れ昔を偲んで舞を舞い、やがて夜も明ける頃、月の都へ去って行く。