妹背山婦女庭訓

2010/04/24

大阪の国立文楽劇場に遠征して、「妹背山婦女庭訓」の通し狂言。「妹背山婦女庭訓」は明和8年(1771年)に初演された近松半二ほか作の大作。大化の改新が時代背景、舞台は奈良と異色の作品で、今年が平城京遷都1300年にあたることから今回上演されることになったもの。私自身は歌舞伎で「吉野川」を10年以上前に観たことがあり、さらに先日観た女流義太夫の「道行恋苧環」がよい予習になっていますが、通し狂言は観たことがありません。ただし、この日の公演は各段の順番を入れ替え、第一部を久我之助・雛鳥の物語に、第二部をお三輪の物語にまとめ直したものになっています。

この日一日の長丁場は、「小松原の段」からスタート。久我之助と雛鳥の出会いを描く段です。美男の前髪侍・久我之助が床几に休んでいるところに通りがかった雛鳥一行。久我之助に一目惚れした様子の雛鳥に機転をきかせた腰元たちが自分たちも隣の床几で休むことにし、腰元小菊が久我之助の持つ遠眼鏡のようなものを貸してほしいと声を掛けます。その筒状のものは小鳥狩りの吹矢筒で、これを聞いて小菊は雛鳥にマアこの筒をちよつと握ってご覧じませ。どのような処へでも心よう届きさうな、長い物でござります……って、もしかして下ネタ?その吹矢筒を使って雛鳥と久我之助が囁き合ううちに腰元に押し出された二人は、ひとつ床几に腰掛けて扇の影でキス。まだ出会って何分もたっていないのに、凄い積極性!腰元たちも暑い暑いと袖をぱたぱたさせています。ところが、そこへ邪魔に入ったのが雛鳥に執心している宮腰玄蕃。久我之助と雛鳥が敵同士の家の子息・息女であることが明かされ、二人は愕然とします。割って入った小菊に玄蕃が、雛鳥を妻にもらう仲立ちを求めると、返事を聞かせようと小菊は吹矢筒を玄蕃の耳にあてたと思ったら、吹矢を筒に入れてふっと吹いたから客席は大笑い。凄いぞ小菊。玄蕃が悶絶する間に雛鳥一行は立ち去り、玄蕃たちもその場にもたらされた釆女の局行方不明の報せを蝦夷子へ注進すべく去っていきます。残された久我之助が思案するところへやってきたのは、当の釆女。蝦夷子が娘・橘姫を入内させるために釆女を邪魔としていることを察し、父の鎌足のもとへ逃れようとしたのでした。久我之助は事情を知り、釆女を匿うことにします。

「蝦夷子館の段」は、雪景色の屋敷と庭。釆女の消息を尋ねる蝦夷子のもとへ召し出された久我之助が用を終えて立ち去ろうとすると玄蕃らに切り掛けられます。迫る刃を久我之助が庭の飛び石で受けたところへ、天井から格子状の鉄網が下りてくるのですが、はっきりいって意味不明。ともあれ、武芸の腕試しに合格した久我之助が悠々と去った後に、入鹿の妻が出てきます。土中の棺に入って百日目の夫・入鹿を思い、はらはらと雪が降り始めた庭に立ち尽くすうちに蝦夷子とのやりとり、そして自分の野望が明らかにされた蝦夷子は刀を抜いて斬りつけますが、そのとき入鹿の妻が「懐中の一巻」を火鉢に投げ入れると、本当に白煙がぱっと立ちました(一体どうやって?)。この狼煙が合図となって勅使の安倍行主と大判事清澄に踏み込まれた蝦夷子はついに切腹を余儀なくされますが、蝦夷子の死と同時に行主も胸に矢を受けて絶命。びっくりする大判事(こちらもびっくりした)の前にヤアヤア清澄、必ず驚くことなかれと松香大夫の大音声と共に現れたのが、ざんばら髪ながら目ぢから強く威風堂々の入鹿です。

場面変わって「猿沢池の段」は、美声・三輪大夫。盲目となった天智天皇は緋色の袴に髪はオールバック!猿沢池に身を投げた(と聞かされている)釆女を偲んでここへやって来たのですが、そこへ参上したのは、かつて勅勘を蒙りながら蝦夷子の陰謀を聞き玉体守護のため駆け付けた藤原淡海(鎌足の息子)。これを喜んだ帝でしたが、宮廷からの急使が入鹿の宮中進攻を報告。淡海はとっさの機転で官女の耳元に謀りごとを囁くと、官女たちは次々に伝言ゲーム。つまり、帝が視力を失っていることを幸い、その嘆きを鎮めるために内裏は無事であると方便を使って別の場所へ保護しようというわけですが……えっ、三輪さんの出番これだけ?

続く「太宰館の段」は英大夫。この段は第一部のクライマックス「妹山背山の段」の前段にあたり、奈良の都、故・太宰少弐の館で大判事と少弐の未亡人・定高が顔を揃えます。まずは領地の遺恨から不倶戴天の両人の力のこもったやりとりが、大判事・定高それぞれの気風を示して見事です。しかし、そこへ現れた入鹿はさらなる大きさ。まず大判事の息子・久我之助が釆女の付人であったことから大判事が釆女の行方を知っているだろうと言いがかりをつけ、定高も大判事を責めると今度は眉を上げ大口開いて肩を揺する豪快な笑いとともに、久我之助と定高の娘・雛鳥が恋仲だから定高もグルであろうと難癖をつけた上で、潔白の証に久我之助の出仕と雛鳥の入内を命じます。悪い奴……。仕方なく応と答えた大判事と定高に、入鹿がダメ押しをするように背くにおいては忽ちに麿が威勢の嵐にあて、まつこのとほりと官女が持ってきた桜の枝を笏で打つと、枝の花が一瞬で落ちてしまいました。二人が退出した後に、先帝方との戦闘の様子が注進されて入鹿は自ら馬上の人となりますが、本当にひらりと馬に乗って客席から拍手喝采。

そしていよいよ「妹山背山の段」。この段を歌舞伎に移した「吉野川」では両花道ですが、ここ文楽劇場では両床となります。両床にはこうこうと照明が当たり、そこへまずは文字久大夫と呂勢大夫が登場。上手は白裃に黒塗りの見台、下手は紫の裃に丹塗りの見台です。舞台を隠す紅白横縞の幕が文字久さんの語りの途中で切って落とされると、そこには桜が満開の春の吉野川の景色。川面は滝車の波模様がうねうねと動いていますが、上流側は速く下流側はゆっくり回るようになっていてリアル。その川の流れをはさんで上手(左岸)が背山=大判事清澄の館、下手(右岸)が妹山=定高の館です。「太宰館の段」での入鹿の台詞に定高が領分大和の妹山、清澄が領地紀の国背山とある通りの配置ですが、実際はどちらも大和です。文字久さんの語りを受けついでイケメン呂勢さんが張りのある声で頃は弥生の初めつ方と語ると下手の館の障子が開いて、雛祭りの装いの部屋の中で出遣いの蓑助師が遣う雛鳥が、久我之助のいる背山とは目と鼻の先なのに川(両家の不和)に隔てられ逢えないクドキ。このとき、私の座席からはちょうど真横から鶴澤清治師の指遣いを見ることができたのですが、その繊細な指の動きにしばし見入ってしまいました。やがて上手の館の障子も開いて物思いにふける久我之助の姿が現われ、雛鳥は柱にしがみついて気づいてもらおうと手を振るのですが、気づいてもらえずはらはらと落涙。かわいそうに……。こんな具合に、雛鳥の様子は下手の床から、久我之助の様子は上手の床からそれぞれ語られるうちに、館を出た久我之助がつられて外に出た雛鳥に気づいて、二人は川をはさんで感激の対面。顔と / 顔 / 見合すばかり / 遠間の / 心ばかりが、い / だ / き / あ / ひとたっぷり間をとって両床交互のステレオで語り、久我之助と雛鳥が所作を見せます。切々とクドキを語り、川を渡ろうとする雛鳥を一同が制するところへ、幕の内からの大判事清澄様御入りの声とともに住大夫師が錦糸さんと共に登場。ついで後室様御出での声に綱大夫師も現れて、しかも舞台上には大判事の玉女さんと定高の文雀師。なんと贅沢な場面でしょう!

ともあれ、二人の親は本心を隠しつつ語り合って、桜の枝を合図とし、子が入鹿の命に従うときは花をつけたまま、従わぬときは花を散らして川に流すことを約します。ここからそれぞれの親子の会話、まずは雛鳥の方から。定高は雛鳥に入鹿への入内を告げ、驚き嘆く雛鳥にここで久我之助の執心を続けては久我之助の命にかかわると渾身の説得。ついに泣きながら得心したという娘を前に、定高もまた出かしやつたと泣きながら髪を結い直そうと障子を閉じます。次に久我之助の方。大判事は、入鹿とのやりとりを通じて釆女の行方が知れないのは鎌足の命を受けた久我之助の計らいと推察し、とすれば久我之助を出仕させよとは釆女の行方を明かさせようとする入鹿の計略と見抜いた上で久我之助に切腹を求め、倅が首を切る刀とは五十年来知らざりしと嘆きます。久我之助もこれを受け入れ、二人は手を取り合って泣きますが、一方の定高も雛鳥に、入内させるとは偽りで、雛鳥の久我之助への操を立てるために首を切るつもり、そのためのかき上げ髪だと明かして祝言こそせね、心ばかりは久我之助が、宿の妻と思ふて死にやと言い聞かせます。雛鳥と定高は、抱き合ってアイと感極まってのリフレイン、客席からは拍手が湧き上がりました。再び大判事邸、白装束になった久我之助は刀をぐっと腹に突き立てますが、そこで父はヤレ暫く引廻すな。覚悟の切腹せく事はないって、痛いんだから早く介錯してあげないと!一生の名残女が面、一目見てなぜ死なぬとは言っていますが、後に語るようにこれは大判事の未練。しかし久我之助は、自分が死んだと聞いては雛鳥も後を追いかねない、それより入鹿の命に従ったと伝われば雛鳥も入内を受け入れるだろうと願い、父は柱に寄りかかって立つと、やっとの思いで桜の枝をそのままに川へ投げ入れました。これを見た雛鳥は久我之助の身が無事であると喜び、定高にもやはり桜の枝を流させると、母の刃にかかって首を落とされてしまいます。その尋常ならざる様子に大判事は障子を落としてヤア雛鳥が首討つたか、かたや定高も久我殿は腹切つてか。この場面、これまでどうして二人とも死んでしまったのか理解できていなかったのですが、やっと得心がいきました。それにしても、あまりにも哀れ。住大夫師と綱大夫師の芸にすっかり感情移入させられてしまって、涙腺に熱いものが……。

ここからは、双方の親の和解、そして琴の音も加わり雛道具を嫁入道具の代わりにして綿帽子をかぶった雛鳥の首が久我之助のもとへ輿入れ。柄杓の水を大判事が雛鳥と久我之助の口に与えて、これは三三九度の盃でしょう。大判事は今雛鳥と改めて親が赦して尽未来、五百生迄変らぬ夫婦。忠臣貞女の操を立て死したる者と高声に、閻魔の庁を名乗つて通れ、南無成仏得脱と唱え、もはや虫の息の久我之助に経巻を開いてかぶせると遂に首を落としました。終幕は、両脇に首を抱えて立ち尽くす大判事と、腰元たちに支えられて呆然とする定高。長大な、しかし一瞬の緩みもなく引き込まれたクライマックスを終えて、ここで第一部は終了です。いやもう、「妹山背山の段」のゴージャスさを存分に堪能。骨太なストーリーの中にあって親子・恋人同士の情愛を濃厚に描くこの段を最高の配役で観ることができて、これだけでも大阪まで来た甲斐があったというものです。

第二部は、プロローグ的な「鹿殺しの段」から。暗い森の中での鹿狩りです。ただちに「掛乞の段」に写って、舞台は芝六の家。チャリ場ですね。猟師の侘び住まいに帝を迎えたはいいものの、供の大納言も官女たちもそのままの姿では人目について仕方ありません。そこで芝六が持って帰った庶民の衣装に着替えさせますが、大納言はどてら姿でもなにげにノーブルですし、官女たちは襤褸を着ても髪飾りはそのままという珍妙な姿。そこへ米屋が掛けの回収にやってきました。芝六の女房・お雉に掛けを払えと語気荒く迫る米屋に大納言がのんびり貴族調の口調でヤヨ下々の者、いとはしたなき争ひかな、静まれよや。この大納言、いかにも脱力系で、米屋が売り掛けの書出しを示すと書出し一つ米代六十六、去年の霜月残る銀(かきいだしひとつよねしろむそじむつ、こぞのしもつきのこるしろかね)、これは恋歌とも思はれずとあくまで天然。呆れた米屋はイヤ恋も恋、借金乞いぢやとさらに金払えと迫りますが、ふと作戦を変えてかうは云ふもののコレ嬶衆こなさんの心次第で結構な了簡があるにナと口元をじゅる。しかし、お雉に抱きついたところを芝六に投げ飛ばされ、米代は密夫代と帳消しにされてしまいます。引き続く「万歳の段」では、芝六の家を内裏と思っている帝が淡海に寿の管絃を求めて淡海はびっくり冷や汗。芝六の機転で万歳を披露して事なきを得ました。

さて、咲大夫が床に上がって「芝六忠義の段」。鹿殺しは実は大罪ですが、芝六と息子の三作が鹿を狩ったのは、入鹿の霊力を損なうための「爪黒の鹿の血」が必要だったからでした。しかし、その科人の訴人を促す村の歩きの声を聞いた三作は、罪をかぶる覚悟を固めて弟の杉松に書状を渡して興福寺へと走らせ……たのですが、杉松が走り出て行くときに枝折戸を破壊!黒衣さんがあわてて修繕して事なきを得ました。やがて表に侍たちが集結し、ソレと芝六宅へ踏み込みます。大化の改新頃の話なのに十手・捕り方姿というのが違和感ありますが、細かい時代考証はスルーするのが文楽の作法。それはともかく、捕り方たちは芝六宅に帝や淡海が匿われているはずと三作を人質に芝六へ詰め寄り、芝六は大庄屋宅へ赴くことになりました。芝六が裏切った、とあせる淡海。夫を信じるよう訴えるお雉。と、今度は興福寺の衆徒がやってきて三作をつかまえます。狼狽したお雉の前で、三作は義理の父である芝六に嫌疑が及んではと自ら名乗って出たと縷々説明。これを聞いてお雉は号泣ししがみつきますが、衆徒たちに払いのけられ倒れ伏して、袖を噛んで泣くばかり。このあたりの愁歎の表現は、母の必死さが伝わり圧倒されるものがありました。ところが、そこへ捕り方を言いくるめて帰ってきたとほろ酔い機嫌の芝六。父には言うなと三作から言い含められていたために、お雉はぐっとこらえて夫を迎えます。翌朝、三作が鹿殺しの罪で石子詰めにされる六つの鐘が鳴り響いた瞬間、芝六は抱いて寝ていた杉松を刺し殺しました。捕り方たちは芝六の心を試すために鎌足が差し遣わした偽者、しかしお雉の連れ子の三作を人質にとられて迷いを見せた芝六は、申し訳に実の子である杉松を刺して二心なきことを示そうとしたのでした。しかし、お雉から三作が鹿殺しの罪をかぶって引っ立てられたことを聞かされて狂気のようになった芝六が外へ駆け出すところで、舞台のセットが右へ動いて岩屋が現われ、蓑助師の鎌足、釆女、そして裃姿の三作。石子詰の刑に処せられようとしていた三作は、三作を埋めるための穴から入鹿が隠していた内侍所(鏡)と神璽(勾玉)が出たために鎌足によって助けられていたのでした。鹿殺しの罪の報いには杉松の死骸が埋められることになった上で、芝六三作親子は鎌足の臣となり、帝も鏡の力で視力を回復。一同は入鹿への反転攻勢を誓って打ち揃っての見得。

……とまあ、こんな具合に大義のために子を犠牲にしたり父や兄弟を裏切って大団円(まだ終わっていませんが)という展開は文楽ではおなじみのパターンですが、果たして江戸時代の上方の町人たちはそうした主人公たちの振る舞いをどう思っていたんでしょうか?共感をもって迎えたのか、それとも自分は武士でなくてよかったと安堵したのか。もちろん芝六も引き裂かれるような思いで杉作を手にかけており、お雉にいきさつを説明する芝六の声は上ずり、感極まった咲大夫は床本をどん!と叩いての熱演でした。そして、この芝六親子のエピソードだけでもずしんとこたえる程の重さがありましたが、話はまだまだ続きます。

千歳大夫の「杉酒屋の段」で、いよいよ悲劇のヒロイン・お三輪の登場です。夕方、烏帽子職人求馬のもとへ白絹優姿の姫が入り、これを目撃した隣の杉酒屋の丁稚は寺子屋から戻ってきた娘のお三輪に早速告げ口。あわてたお三輪は丁稚に頼んで求馬を呼び出しますが、丁稚とのやりとりのときはずいぶん早口だったお三輪が、いざ求馬を目の前にすると急にしおらしい風情になって求馬の膝にすり寄るのが笑えます。心変わりはないという求馬の言葉に安心したお三輪は、紅白の苧環を取り出して前に起きました。恋ひ渡る思ひは千々に結ばれて 幾夜願ひの糸の苧環七夕には白い糸を男、赤い糸を女に見立て、苧環に針をつけて結び合わせて祭る風習によるものですが、もとをたどれば古くからの三輪山伝説。神代の頃、活玉依姫のもとに夜な夜な通う男があったが、その素性を知りたいと一夜衣の裾に糸を刺して翌日これを頼りに訪ねて行くと三輪神社に入ったので、この男は大物主であることがわかったという古事記の伝承に由来します。そこへ求馬宅を出てやってきた最前の女性、求馬の狼狽ぶりを意に介さずコレ申し求馬様。あの女中はお端女か、何人でござりますと上から目線。お三輪はナニ?という顔でここから二人のバトルが展開し、ついに求馬の手を両側から引き合うところへ求馬がお尋ね者の淡海であると知ったお三輪の母まで加わって奪い合い。母は丁稚が繋ぎ縄を酒桶の呑み口に縛り付けたために動くたびに酒が漏れて追うに追われず、白絹の姫、求馬、お三輪は外へ逃れていきました。

「道行恋苧環」、浅葱幕が落ちれば、そこは暮れなずむ布留社の前で、追いついた求馬に身の上を明かせぬ苦しさを切々と訴える姫と、そこに割って入って求馬の浮気心・姫の横恋慕を共に責めるお三輪(勘十郎さん出遣い)。しかし姫も負けてはいず恋は仕勝ちよ我が殿御と意外に大胆です。またしても求馬を両側から引き合う二人の女、そして囃子方も入って三体の人形は所作事になって、夜明けの鐘に驚いて逃げる姫の袖に求馬が苧環の糸をつけて後を追い、その求馬の裾にお三輪も糸をつけますが、お三輪が追おうとして倒れた拍子に白糸は切れてしまいます。まったくの静寂の中、糸をたぐってじっと見つめるお三輪。求馬の行方を見やると、次の瞬間、勘十郎さんの「はっ!」という声とともに三味線が入って必死の形相のお三輪は上手へ走り込みました。

「鱶七上使の段」。御殿に現れた入鹿はキンキラキンの衣装で、どんどん品がなくなっていく感じです。その酒宴の最中に物もう頼みませうとやってきた大柄な男は、格子縞の木綿長裃を着て首に手拭、手に焼き物徳利。聞けば難波の浦の猟師、鱶七。鎌きりのたいしんから言いつかってやってきたと名乗って酒を差し出しますが、毒薬を疑う玄蕃たちの目の前で毒味と称して全部飲んでしまいます。よい呑みっぷりですが、鎌足のことを鎌どんとはいったい?さらに入鹿へ恭順の意を示す鎌足からの手紙にもいちゃもんをつける入鹿に、鱶七は臆することもなくもろ肌脱ぎになって、しかし意外に筋の通った理屈を並べます。このあたり、語りによる鱶七の造形が本当に見事。ともあれ、これに苦笑した入鹿は、鱶七を人質にすると言い残して奥へ。残された鱶七は飯を喰わせろなどとぶつぶつ言っていましたが、ごろりと横になると床から槍。気にせず槍二本を交差させて枕の替わりにするところに、今度は官女たちがやってきてつんつんとつついたりします。この官女たち意外にさばけていて、地下の女子は羨ましい、芝居は見次第、好い男は持次第それに引き換え自分たちは……と宮仕えの不自由さを下ネタ混じりでひとしきり嘆いた挙げ句、男が欲しいと鱶七に抱きついてぶっとばされ、フン!といった顔で下がっていきました。ところが、官女たちが置いていった酒を鱶七が試みに庭の菊にかけてみると、みるみるうちに菊はくたっと折れ曲がってしまい(!)、鱶七はハ丶丶丶丶最前の鎗といひ、またぞろやこの毒酒。ハレヤレきつい用心。業を煮やした玄蕃は、家来に囲ませて鱶七を引っ立てますが、鱶七は少しも動じず荒事のカッカッカッという仕種を見せて奥に入っていきました。

「姫戻りの段」。入鹿の館へ戻ってきた白絹の姫は、入鹿の妹・橘姫。そして苧環の糸に引かれてやってきた求馬は、敵の鎌足の息子・淡海。互いの素性がばれてはもはや、と覚悟を決める姫に、求馬は入鹿が奪った十握の御剱を奪い返せば夫婦になろうと言います。このパターン、「鎌倉三代記」で三浦之助が時姫に実父・北条時政を討てと命じるのと似たようなものですが、これも現代の価値観ではよくわからないところ。惚れた弱みにつけこんで肉親を裏切らせるというのは、いいんでしょうか?そして、もし事が露顕して姫が死ぬことになっても尽未来際かはらぬ夫婦って、それではお三輪の立場は?

いよいよラスト、「金殿の段」は待ってました!の嶋大夫師。求馬にはぐれたお三輪が入鹿の館に駆け込んでくる冒頭から、早くも顔を紅潮させて乗ってきます。そこへやってきた豆腐買いは玉女さん。この役は元来は端役ですが、どうやら文楽でも歌舞伎でも御馳走になるようです。お三輪の呼び掛けにいきなり早合点でそこをこちらへかう廻つて、そつちやの方をあちらへ取り、あちらの方をそちらへ取り、右の方へ入つて左の方を真直ぐに脇目もふらずめつたやたらにずつと行きやとワケのわからない説明をしたために、お三輪も客席も「???」という表情。そうじゃなくて……と好い男がこなかったか?と恥じらいながら問い直すと、それなら局たちが引捕へ、有無を云はせず御寝所へぐつと押込み上から蒲団をかぶせかけかけって無茶苦茶。愕然とするお三輪に宵の中内緒の祝言がある筈と一方的に追い打ちをかけて出て行ってしまいました。何なんだ、この人!怒り狂ったお三輪は求馬を探し出してこれ見よがしに去ってみせる、と一度は息巻いたものの、それではしたない女だと求馬に愛想を尽かされたらどうしよう、と悩んで身悶えしながら館の奥に進みますが、さすがに見るものみな珍しく、きょろきょろしているうちに官女たちとぶつかり、すみませんとぺこぺこしているうちに次の官女にぶつかって、ついに引き立てられ誰何されます。しどろもどろで作り話をしながら婿様(求馬)を拝ませてほしいと頼むお三輪に、官女たちは事情を察して弄つてやろとニヤリ。まずは長柄の銚子を持たせて祝言の酌の稽古をさせ、さらに千秋万歳と謡わせますが、もはやお三輪は肩を震わせてうつむいてしまいます。とどめに片肌脱がされ鉢巻きもさせられて、苧環片手によろよろ竹にサ雀はナ品よくとまると馬子唄を歌うお三輪を散々嘲笑した官女たちは、お三輪を見捨てて行こうとします。驚いたお三輪が縋ると、官女たちはお三輪を叩きのけ、二重の廊下から前へ放り出されてしまいました。凄いイジメ!身分違いの恋が原因とはいえ、これはあまりに可哀想すぎます。激情が堰を切り、肩で息をして髪を振り乱すとエ丶妬ましや腹立ちや、おのれおめおめ寝ささうかと蛇体になってしまうのではないか(←お話が違います!)と心配になるくらいの勢いは、勘十郎さん渾身のお三輪です。そのお三輪が館へ駆け入ろうとするところへ現れたのが、巨体の鱶七。お三輪をつかまえると、脇腹に刃を突き立てます。うわ、なんで?とこちらが驚いているうちに、一度は欄干に倒れ付したお三輪は奥の間を睨みつけ、橘姫に対してこの恨み晴らさいで置かうかと今際の際のド迫力。ところがこれを聞いて鱶七は女悦べ。それでこそ天晴れ高家の北の方と声を掛けます。花四天の手による引き抜きで鮮やかな衣装となった鱶七こと金輪五郎の口から、お三輪が慕う求馬は実は藤原淡海で、入鹿を倒すには爪黒の鹿の血汐と疑着の相ある女の生血を混ぜて笛に注ぎ吹く必要があったために、不憫ながら手にかけたと教えられたお三輪。このくだりでの嶋大夫師は、強い三味線と共に上体をぶんぶん揺らしまくって大熱演でしたが、お三輪の今際の際の言葉を語るときは、一転してしんみり哀れを誘う語り口。あなたのお為になる事なら死んでも嬉しい忝い。とは云ふものの今一度どうぞお顔が拝みたい。たとへこの世は縁薄くと未来は添ふて給はれ。そして苧環を手にするとこの主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求馬様。もう目が見えぬ、懐しい恋しと言い残して魂の糸切れし。最後は、せめて葬ってやろうとお三輪の亡骸を背に負った金輪五郎が、鎗に囲まれて見得を切ったところで幕。

最後の段の嶋大夫師の語りは相変わらずの絶品で、終演後、後ろの席に座っていた若者グループが「嶋大夫さん、凄いね!」と感動した様子で話し合っていました。それはその通りなのですが、お三輪にすっかり感情移入してしまった私は、あまりに哀れなその運命に落ち込んでしまいました。「金殿の段」の後、入鹿は倒され、橘姫は淡海と結婚し、三作は大判事の養子となって全段が終わるのですが、それではお三輪の純情は求馬に踏みにじられたまま?その場で観ていて、あるいはこうして記事を書いていて、とても辛くなってくる話の流れ。私としては、橘姫と淡海の婚礼の場へなぜか不思議な白拍子がやってきて……と話を脚色したくなるところですが、まあ、それは無理だろうなあ。それよりも、このある意味人間性を疑わざるを得ない求馬の人物像を、歌舞伎役者ならどう演じるのでしょう?そう考えると、次は歌舞伎でこの演目を観てみたくなってしまいました。ともあれ、これだけ多彩な登場人物を一人ひとり書き分け、なおかつ緻密で濃厚なストーリーを描ききった近松半二の筆力には、完全に脱帽です。それも、今から240年も前の話だというのですから。

文楽漬けの一日を大阪で過ごして充実した疲労感に包まれながら、この日は日本橋近くのホテルに泊。翌日は、お三輪ゆかりの三輪山を訪れることにしました。

配役

妹背山婦女庭訓(第一部) 小松原の段 久我之助 竹本南都大夫
雛鳥 豊竹睦大夫
小菊 豊竹芳穂大夫
桔梗 竹本文字栄大夫
玄蕃 豊竹始大夫
釆女 豊竹希大夫
  竹澤團吾
蝦夷子館の段 竹本津國大夫
鶴澤清馗
豊竹松香大夫
竹澤宗助
猿沢池の段 竹本三輪大夫
野澤喜一朗
太宰館の段 豊竹英大夫
竹澤團七
妹山背山の段 背山
大判事 竹本住大夫
久我之助 竹本文字久大夫
豊澤富助
野澤錦糸
妹山
定高 竹本綱大夫
雛鳥 豊竹呂勢大夫
鶴澤清治
鶴澤清二郎
 琴 鶴澤寛太郎
〈人形役割〉
久我之助 桐竹紋壽
雛鳥 吉田蓑助
腰元小菊 吉田蓑一郎
腰元桔梗 桐竹紋臣
宮越玄蕃 吉田幸助
釆女 吉田一輔
蘇我蝦夷子 吉田玉志
荒巻弥藤次 吉田清五郎
めどの方 吉田清三郎
中納言行主 吉田勘緑
大判事清澄 吉田玉女
蘇我入鹿 吉田文司
天智帝 桐竹勘壽
藤原淡海 吉田和生
禁廷の使 桐竹紋吉
後室定高 吉田文雀
注進 吉田玉佳
家来 大ぜい
近習 大ぜい
腰元 大ぜい
官女 大ぜい
 
妹背山婦女庭訓(第二部) 鹿殺しの段 豊竹靖大夫
豊澤龍爾
掛乞の段 竹本相子大夫
鶴澤清丈
万歳の段   豊竹咲甫大夫
鶴澤清志郎
ツレ 鶴澤寛太郎
芝六忠義の段 豊竹咲大夫
鶴澤燕三
杉酒屋の段 竹本千歳大夫
竹澤宗助
道行恋苧環 お三輪 豊竹呂勢大夫
橘姫 豊竹咲甫大夫
求馬 豊竹芳穂大夫
  豊竹靖大夫
豊竹希大夫
鶴澤清介
野澤喜一朗
鶴澤清馗
鶴澤清公
野澤錦吾
鱶七上使の段 竹本津駒大夫
鶴澤寛治
姫戻りの段 豊竹つばさ大夫
鶴澤清志郎
金殿の段 豊竹嶋大夫
鶴澤清友
〈人形役割〉
猟師芝六 豊松清十郎
倅三作 吉田蓑紫郎
女房お雉 吉田蓑二郎
大納言兼秋 吉田玉輝
米屋新右衛門 吉田勘市
藤原淡海(求馬) 吉田和生
天智帝 桐竹勘壽
倅杉松 吉田蓑次
鹿役人 吉田文哉
興福寺衆徒 吉田玉英
藤原鎌足 吉田蓑助
釆女 吉田一輔
丁稚子太郎 吉田玉勢
橘姫 吉田勘彌
お三輪 桐竹勘十郎
お三輪母 桐竹亀次
宮越玄蕃 吉田幸助
荒巻弥藤次 吉田清五郎
蘇我入鹿 吉田文司
漁師鱶七実は金輪五郎 吉田玉也
豆腐の御用 吉田玉女
金殿の官女 桐竹紋秀
金殿の官女 吉田玉勢
金殿の官女 吉田玉翔
金殿の官女 吉田玉誉
官女 大ぜい
村の歩き 大ぜい
捕手 大ぜい
花四天 大ぜい

あらすじ

第一部
小松原の段 大判事清澄と太宰の後室定高は領地争いで対立している。だが、大判事の子久我之助と定高の娘雛鳥は恋仲となった。久我之助は、逃れてきた采女の局を変装させて窮地を救う。
蝦夷館の段 蝦夷子は、自らの大望を息子・入鹿の妻も知っていることを知り、入鹿に預けた謀反の連判状を渡すよう詰め寄って刃にかけるが、蝦夷謀反の取り調べに大判事清常と安倍行主が到着し、蝦夷子は切腹を余儀なくされる。だがこれは全て父に代わり帝位を握ろうとする入鹿の計略だった。入鹿は父蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたため、超人的な力を持ち、日本の支配者たらんことを宣言し宮中に攻め入る。
猿沢池の段 盲目の帝は采女が猿沢池に身を投げたことを聞いて、池に行幸する。そのとき、入鹿が宮中に乱入し、帝位を称したという知らせ。鎌足の息子・藤原淡海は、帝を猟師芝六実は家臣玄上太郎の家に匿う。
太宰館の段 権力を手にした入鹿は、大判事と定高に久我之助をわが家臣に、雛鳥を我が側室にせよと無理難題を言い渡す。
妹山背山の段 大判事と定高は思いにふけりながらそれぞれの屋敷に帰る。両家は吉野川を挟んで満開の桜の妹山、背山に住む。清澄、定高とも過去の行きがかりを捨て、互いに相手の子の命を救おうと涙ながらに我が子を手にかけたが、川越しに双方とも死んだことを知り、定高は雛鳥の首を雛人形とともに川に流し大判事に受け取らせる。
第二部
鹿殺しの段 芝六は、入鹿を滅ぼすには爪黒の鹿の血と嫉妬深い女の血が必要と知り、禁を破って葛篭山で爪黒の神鹿を射殺す。
掛乞の段 山中の芝六の家は帝が逃げ込んだことで、にわか仕込みの宮中に早変わり。多数の官女公家がつめかけ、そこに米屋が借金の取り立てに来るわ、無聊を慰めるため帝に万歳を披露するなど大騒ぎとなる。
万歳の段
芝六忠義の段 鹿殺しの罪を芝六の子・三作が引き被り、石子詰の刑を受けようとするが、鎌足の働きで助けられ、采女と神鏡も見つかる。神鏡の力で帝の眼も治り、鎌足による反撃が始まる。
杉酒屋の段 三輪山のふもとの杉酒屋の娘・お三輪は、隣に住む貴公子然とした求馬に惚れている。求馬こそ藤原淡海の世を忍ぶ姿だった。だが、求馬のもとには夜毎通う姫がいた。
道行恋苧環 三輪の里の北、布留の社での橘姫、求馬、お三輪による恋の鞘当て。夜明けの鐘の音に驚き走り去る姫の袖に求馬は苧環の針をつけて後を追い、その求馬の裾にお三輪もまた針を付けるが、お三輪の糸は途中で切れてしまう。
鱶七上使の段 入鹿が家臣たちを侍らせて宴会をしている。そこへ難波の猟師・鱶七が鎌足の使いと称してやってくる。いぶかる入鹿に鱶七は、家臣になるという鎌足の手紙を見せるが、納得しない入鹿は実否をただすまで鱶七を人質にせよと言い棄てて奥に入る。豪胆な鱶七はさまざまな罠にもびくともせず、悠々と奥に入る。
姫戻りの段 橘姫が帰ってくる。その後を赤い糸をしるべに求馬が追ってくる。橘姫は求馬に、妻になるため、命にかけて入鹿が所持する十握の宝剣を奪うことを誓う。
金殿の段 お三輪は糸が切れてようように御殿にたどりつく。来かかった豆腐買いの女から二人が夫婦になることを聞いてあせるが、建物に入ろうとして官女たちに止められ、さんざんに弄られる。ついに嫉妬に狂ったお三輪は、髪振り乱し建物に入ろうとすると、鱶七に刺される。鱶七は実は鎌足の家臣・金輪五郎。五郎はお三輪に、主君の命を受け、入鹿を討つべく来たが、爪黒の鹿の血と嫉妬に狂う女の生血を鹿笛にかけて吹けば、入鹿の力が衰えることを知り、不憫ながらもお前を刺したと告げる。お三輪は自分の犠牲が求馬、実は藤原淡海のためになることを知り、喜びつつ死んでいく。