土筆 / 西行桜

2010/03/19

国立能楽堂の定例公演で、狂言「土筆つくづくし」と能「西行桜」。いかにも春にふさわしい番組です。

土筆

連れ立って野遊びに出た二人の男。いきなり最初から能天気な掛け合いに楽しくなってきますが、嬉しそうに春めいた野の様子を描写した後にシテ・何某が「あれは芍薬……いや、土筆」と言い間違え。この曲では、まず土筆についてやりとりがなされてシテが笑われ、ついで芍薬の歌でアドが馬鹿にされるという展開なので、これはフライングです。それはともかく、土筆が生えているのを見つけたシテが「土筆しおれてぐんなり」と詠んだところ、アドが急に呆れたような表情になって「いやもうし、それは何でござる?」。それまでの親しげな調子とうって変わって「ハァ?なに言ってんの?」といった感じになるのが笑えます。シテは憮然として「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風騒ぐんなり」(慈鎮和尚)と言うではないかと答えますが、それは「騒ぐなり」の誤りだと思い切り高笑いをされてしまいます。気を取り直して所を変えることにする道すがら、シテは「むさとしたことを言った」と言えばアドも笑って悪かったと和解の気配。ところが沢に出てそこに芍薬の芽を見つけ、シテが芍薬を詠った歌を知らないと言うとアドは「難波津に芍薬の花冬ごもり 今を春辺と芍薬の花」(王仁)を披露してみせますが、今度はシテが大笑いする番。それは「咲くやこの花」だとやりこめたものだから、「ぐんなり」vs.「芍薬」で嘲笑合戦になった後、二人は取っ組み合いの相撲になり、シテを投げ飛ばしたアドを「やるまいぞ」とシテが追い込む形になって終わります。

「芍薬の花」はまだしも「ぐんなり」はかなり無理があるような気がしないでもありませんが、それはともかくここで登場するふたつの和歌は、前者が新古今和歌集巻十一・恋歌一、後者が古今和歌集仮名序に登場する著名な和歌だそうで、室町時代の観客はそうしたもとの歌を知った上で、二人の珍妙なやりとりを楽しんだのでしょう。狂言を観るにも、相応の教養が必要ということです。

西行桜

昨年の春、京都周辺で西行ゆかりの謡蹟を訪ね歩いており、その縁で「西行桜」はずっと観たいと思っていた曲でした。といっても、その名の通り桜に関わりのある曲ですから、演じられるとすれば当然に春。というわけで1年待ってこの日、79歳の九世片山九郎衛門改め片山幽雪師による「西行桜」を観ることができることとなったわけです。ちなみにこの「雪」号は、観世流宗家から認められて隠居後に名乗る「雪」字を用いた雅号のこと。十世九郎衛門は御子息の片山清司師が来年継ぐ予定です。

引廻しの掛けられた桜付きの山が大小前に置かれて、ワキ・西行法師(宝生閑師)とアイ・能力(山本東次郎師)が登場。舞台は、脇座の床几に掛ったワキがアイ座に控えるアイにいかに誰かあると呼び掛ける珍しい始まり方をします。ワキは、今年はこの庵室での花見は禁止すると告げるように命じ、これを受けてアイは常座からその旨を触れて、着座します。ここで次第の囃子に乗って出てきたのはワキツレ・花見人たち。先日の「自然居士」での恐ろしい人買人の記憶も新しい森常好師を筆頭に、誰をとってもひとかどのワキ方の面々。その花見人たちが舞台上に向かい合って頃待ち得たる桜狩、山路の春に急がんと次第を謡うのは壮観です。この花見人たちは春にもなり候へば、ここかしこの花を眺め、さながら山野に暮し候と言いますから、かなりボヘミアンな人たちらしく、昨日は東山の地主権現の桜を愛でた彼らが、今日は西行の庵室の桜を見ようとぞろぞろやってきたというわけです。あのド迫力の森常好師に蹴散らされたらさすがの宝生閑師もひとたまりもないのではないか、とはらはらしましたが、一列縦隊で橋掛リをUターンしてきた花見人たちはアイにちゃんと案内を乞うて、花見禁制と告げられるとひらに御心得を以て見せて給はり候へとあくまで丁寧。一同が後ろを向いて膝をついたところで、あたかも脇座にスポットライトが当たったかのようにワキがサシを謡い始めます。それ春の花は上求本来の梢に現れ、秋の月は下化冥闇の水に宿る……と詞章は難解ですが、花を眺めて物思いにふける西行の感懐が美しく謡われて、聞いていてうっとりするほど。機嫌の良さそうな様子を見てとったアイはワキに花見人たちが来たことを告げ、いったんは禁制と言ったではないかと咎めたワキも、花見人たちがわざわざ都から来たということを聞かされては無下にすることもならず、花見を許します。ここで捨て人も、花には何と隠れ家の……と世を捨てた西行が憂き世のさが(嵯峨)から逃れることはできないことを嘆く上歌は観世銕之丞師が地頭を勤める地謡陣の聞かせどころで、非常に伸びやかにゆったりと謡われたこの場面、これほどまでに地謡の存在を強く感じたのは初めてです。そして、花見人たちの優しい心をほめはしつつもワキは、世捨て人の自分にとっては少々心外であるからと、次の歌を詠います。

花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎にはありける

夜になって花見人たちが眠りにつく(という設定で切戸口から退出する)と、作リ物の引廻しがはずされ、中からシテ・桜の精(片山幽雪師)が現れました。白髪に黒烏帽子、茶単狩衣に薄緑色の大口、面は皺尉。ちんまりと床几に掛けたその姿には気品が漂います。埋もれ木の人知れぬ身と沈めども 心の花は残りけるぞやといくぶん金属質の渋い声色で謡ってから花見にと……と先ほどの西行の歌をなぞるのにワキは驚き怪しみ、ここからワキの夢の中でのシテとワキとの問答。シテのあたら桜の咎にはありける、さて桜の咎は何やらんという穏やかながら芯の通った問い掛けには、年経た桜の精の年輪が感じられます。いやこれは憂き世を厭う身なのに貴賤の人々が集まってくることの憂さを詠んだだけだとワキは言い訳をしますが、シテはワキに向き直って、あくまで丁寧な口調ながらも、その気持ちこそおかしい、浮世と見るも世離れた山と見るもその人の心次第であって、花には何の罪もないはず、と戒めます。これにはワキもげにげにこれは理なりと同意するしかありませんが、この一連の問答が、動きはほとんどないのにシテとワキの至芸と言える語り口によって気持ちよく引き込まれるばかり。

その後、シテは立ってゆらゆらと前へ出て草木国土皆成仏の御法なるべしとワキと共に合掌し、西行の知遇を得て仏法の恵みを受けられることを喜ぶと、クリ・サシ・クセ。このクセは都の桜の名所を洛中・山科・洛東・洛西の順に織り込んだ詞章で、シテの舞は冒頭にしっかり足拍子をきかせながらゆったりと舞われます。そして明け方が近づきあら名残惜しの夜遊やな。惜しむべし惜しむべし、得難きは時、逢ひ難きは友なるべし、春宵一刻値千金、花に清香月に陰と、せっかくの西行との夢中での語らい合いを無情にも締めくくろうとする時の移ろいの早さを嘆きます。小書の記述はありませんでしたが、ここで後見が細杖をシテの左手に渡して《杖之舞》の型となり、右手に扇、左手に杖をもっての序之舞。極めてゆっくりとした動きですが、その運びには寸分の揺るぎもなく、玄妙な聖性が感じられる素晴らしい舞に心底感動しました。そして地謡が鐘をも待たぬ別れこそあれ(……間)別れこそあれ、別れこそあれと思い入れをこめて別れの時が来たことを告げると待てしばし、待てしばし、夜はまだ深きぞという詞章になりますが、ここ、元来はシテがワキに対して「まだ目覚めないでほしい」と願う言葉であるのに、この日の舞台では橋掛リを去ろうとするシテを招キ扇で呼び止めるワキの台詞になっていて、桜の精との別れを惜しむ気持ちを押さえがたい西行の心情を示しました。しかし最後はシテが左袖を巻いて掲げ、膝をついたところでついに夢は覚めにけりとなって、散り敷かれた落花を左右交互に足拍子を踏んだシテが山の左から入って安座するとともに、常座へ移ったワキが留拍子を踏みました。

このように、序之舞の後に通常シテが謡う詞章をワキが謡い、シテが踏む留拍子もワキが踏む演出としたことで、シテとワキとが得難き時を共有した友として語り合い、名残を惜しみ合った構図となったように思います。さすがにこの日は、ワキ・宝生閑師が揚幕に消え、それを待つように舞台を離れた片山幽雪師がしずしずと橋掛リを下がっていく間、見所は音もなく見送るばかりで、二人の名優が残した深い余韻に浸りきっていました。

配役

狂言(大蔵流)「土筆」 シテ・何某 大藏吉次郎
アド・何某 善竹十郎
 
能(観世流)「西行桜」 シテ・老桜の精 片山幽雪
ワキ・西行上人 宝生閑
ワキツレ・花見人 森常好
ワキツレ・花見人 宝生欣哉
ワキツレ・花見人 則久英志
ワキツレ・花見人 大日方寛
ワキツレ・花見人 殿田謙吉
アイ・西行庵の能力 山本東次郎
主後見 片山清司
地頭 観世銕之丞
藤田六郎兵衛
小鼓 曽和正博
大鼓 柿原崇志
太鼓 三島元太郎

あらすじ

土筆

暖かな春の日、連れ立って野遊びに出た男達は土筆を見つける。「土筆しおれてぐんなり」と詠んだのを笑われた一人が「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風騒ぐんなり」と言うではないかと主張すると、一方は「それは“ぐなり”の誤りだ」と馬鹿にする。つづいて芍薬の芽を発見。古来これが和歌に詠まれている、いないで論争になるが、一方が「難波津に芍薬の花冬ごもり今を春辺と芍薬の花」を証歌に挙げると、他方は「それは“咲くやこの花”だ」と間違いを指摘。笑われた方は怒り、ついに取っ組み合いの相撲となってしまう。

西行桜

京都西山に住む西行法師の庵の桜が、満開で、毎年春になると大勢の人々が桜をめでに訪れる。西行法師はすげなく断ることも出来ず庭に通すが、閑居を妨げられるので、これを厭わしく思い「花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎にはありける」と和歌を詠む。その夜の夢に、木蔭から白髪の老人が現れて、西行法師の詠んだ歌を口ずさむので不審に思っていると、老人は猶もこの歌の心を尋ねたい、桜の咎とは承服できないと不満を述べ、桜は非常無心の草木であるから、浮世の咎は無いのだと言う。そして自分は実は桜の精だと名乗り、歌仙西行に逢えたことを喜び、名所の桜を讃えて舞を舞い、春の夜を楽しむが、やがて夜が明けると、老桜の精は別れを告げて消え失せ、西行の夢も覚める。あたりは一面に敷きつめたように桜花が散り、人影も消えていた。