速水御舟―日本画への挑戦―

2009/11/15

山種美術館に初めて行ったのは、まだ茅場町にあった頃。その後、三番町に移ってからも何度か訪ねたことがありましたが、今回恵比寿から徒歩10分の広尾三丁目に再移転し、そのオープン記念として速水御舟展が行われることになったので、ぷらぷらと行ってみました。山種美術館の御舟コレクションは、それまでの自前のコレクションに、1976年に旧安宅コレクションを引き継いで充実させたもので、その白眉は重要文化財の《炎舞》(右のチケットの図柄)と《名樹散椿》の二点です。

恵比寿の駅を渋谷寄りの改札から出て、駒沢通りを広尾方向へ歩くこと10分。もしかして通り過ぎたかな?と不安になる頃に「広尾高校裏」交差点に出て、その先の植え込みに「山種美術館 もう少し先の右側です」という手作り感満載の案内が下げられていました。道を誤ったわけではないことにほっとして先に進むと、本当に少し先の右側に、山種美術館がありました。

実のところ、速水御舟の絵はあまり好きな方ではありませんでした。代表作《炎舞》は描写が細密過ぎるし、主題もどことなくあざとい感じがしないでもありません。また《名樹散椿》は淋派っぽくていまひとつ感性に合いません。これらのいわゆる名品よりは、墨の味わいを活かした《牡丹花》や《秋茄子》といった佳品の方が好ましく思われてきたのですが、今回、速水御舟の画業を時系列に沿って紹介するこの展覧会を見ることによって、それぞれの作品の位置づけや画家の意図が理解できるようになり、これまでの印象をずいぶん改めることとなりました。

展示構成は、以下の通り。

  1. 画塾からの出発
  2. 古典への挑戦
  3. 渡欧から人物画へ
  4. 挑戦者の葛藤

まず、14歳で安雅堂画塾に入門した画家の最初期の作品をいくつか紹介した後、今回の展示の主題とも言える「古典への挑戦」のコーナーに移ります。ここでいう「挑戦」とは、従来の日本画の様式から離れて、徹底した細密描写を行うこと、そのために、日本画の画材を用いて油彩画的な質感を表現しようとすることです。いわば描く日本画から塗る日本画への転換で、図録に掲載された解説によれば、これは同時代の洋画家岸田劉生の作品に感化を受けたもので、その結果制作された《京の舞妓》(1920年:この展覧会には出展されていません)の極端な写実は横山大観から酷評されたほど。しかし御舟は、作風に様式性を取り入れるようになり、その成果として《炎舞》(1925年)が生み出されます。さらに淋派の画風を大胆にとりいれた《翠苔緑芝》(1928年)と《名樹散椿》(1929年)がどんと置かれますが、たとえば前者では紫陽花の葉、後者では椿の花びらや枝振りに細密な写実の腕の冴えが窺え、さらには両者に共通する芝草のグラデーションの玄妙さなど、やはり御舟ならではの作品となっています。

この時代の作品が、速水御舟の代表作とされているところからすれば、そのままこの作風を展開していきそうなものですが、1930年に10ヶ月をかけた渡欧は、御舟に新たな課題を与えたようです。事前に美術史家からヨーロッパで見るべきもののリスト(この展覧会に出展あり)の提供を受け、自分でもエル・グレコへの関心を持って周到な準備をした御舟は、西欧絵画の群像表現に強く触発され、帰国すると上述の《京の舞妓》以来離れていた人物画に取り組むことになりました。このコーナーには、旅の途中で描かれたスケッチ、日記、御舟が収集した絵や写真、旅先から家族にあてて送った葉書などが展示されており、御舟がいかにこの旅で多くのものを吸収してきたかが窺えます。さらに、画塾出身で人体デッサンの訓練を受けてこなかった自分に帰国後に課した人体デッサンの素描が展示されており、そうした取り組みの成果を問う作品となるはずだった《婦女画像》も出展されています。この作品は、大下図と未完の本画が出展されており、この展覧会のために修復された本画は、制作途中に乗り板にヤニが生じて作品にシミができたために制作継続を断念したもの。線描による6人の和装の女性が思い思いのポーズで寛いでおり、その一人一人の描写の自然さもさることながら、6人の位置関係がもたらす構成の緊密さがそれまでの御舟の作品とは大きく異なっています。この展覧会の最も重要な出展作と言ってよく、またこの絵が完成していたら御舟の評価は違う次元へと進んでいただろうことが窺えます。

別室の小さな最終コーナーには、上述した《牡丹花》《秋茄子》(1934年)を含むいくつかの花鳥画小品が展示されています。これらは人物画の制作と並行して制作されたもので、そこでも写生から離れたデフォルメの採用や水墨技法の深化など、スタイルの変化を続けていく御舟の姿が垣間見えます。この頃、御舟は家族に対してこれから売れない絵を描くから覚悟しておいてくれと告げ、あるいはこのまままるいものはまるく、四角なものは四角に描いていたら、いつまでたっても絵はうまくならないと葛藤を抱えて、友人の画家としばらく伊豆に隠棲して制作に没頭する計画をたてていました。しかし、実際には《婦女画像》の制作を一時中断した翌1935年、御舟は40歳の若さで腸チフスで亡くなってしまいます。

こうしてみると、速水御舟は当初こそ既存の日本画のスタイルへのアンチテーゼとしてふるまったものの、その後は西洋絵画にも学びながら一貫して自分の限界点を拡張しようとし続けた未完成の画家であることがわかります。そうした文脈の中でもう一度《炎舞》や《名樹散椿》を見れば、これらはいずれもそのときどきの御舟の到達点ではあっても、御舟自身にとっては克服されるべき対象に過ぎなかったと思えてきますし、逆説的ですがそのことによってこれらの絵を、速水御舟という画家の生きた証として慈しみの目をもって眺めることができるようになります。

展示は地下の1フロアで、スペースが小さい上に全体にがやがやとしており、鑑賞環境としては必ずしも恵まれたものではありませんでしたが、漫然と作品を見せるのではなく、御舟の葛藤と挑戦を跡づけるという展示の意図がうまく伝わってくる、よい展覧会でした。11月29日まで。

なお、山種美術館では新美術館開館記念特別展として今後、東山魁夷(2009/12/05-2010/01/31)、横山大観と竹内栖鳳(2010/02/06-03/28)、奥村土牛(2010/04/03-05/23)を順次とりあげることになっています。当分、山種美術館から目が離せそうにありません。