ろじ式(維新派)

2009/11/02

維新派の「ろじ式」(松本雄吉作・演出)を、西巣鴨の「にしすがも創造舎」で観ました。この維新派はとてもユニークな劇団で、彼ら自身の言葉を借りると

作品は会話によって語られることは少なく、セリフのほとんどを単語に解体し、5拍子や7拍子のリズムに乗せて大阪弁で語られる。

発語スタイルだけではなく、踊りについても独特で、その動きはどのジャンルのダンスにも属さない。変拍子のリズムによる動きは、一見すると制限された、単一なものに見えるかもしれないが、30人以上の役者による同時多発的動きは巨大なからくりのように緻密で、その壮大さと精緻さは天体の動きと似ており、それゆえ舞台上に星々が動くような宇宙的広がりを見せる。

また、パフォーマーの基本姿勢に、日本の伝統芸能に見られる“中腰”を使い、日本人 / 私たちの身体性を生かした新しい身体表現を常に追求している

のだそうです。そして、彼らの作品は「移民」や「漂流」をキーワードにしたオリジナル作品で、近年は巨大な人形を用いた「《彼》と旅をする20世紀」三部作に取り組んでいます。私が維新派を知ったのも、この三部作の第二部にあたる「呼吸機械」のDVDを知人からもらったからで、ここでは戦火に故郷を追われた東欧の少年少女の姿を、聖書のカインとアベルの物語を下敷きにして印象深く描き出していました。続く第三部は2010年に、日本を舞台にして上演されることになっているのですが、今回の「ろじ式」はそこに向けたプロローグ的な位置づけになるようです。

会場の中に入ると、舞台の左右や上方には数多くの動物や魚たちの真っ白い骨格標本がかご状の標本箱に入った状態で組み上げられており、暗い舞台中央から奥の闇の中にも標本が潜んでいる様子。概ね上手側が巨大なカジキを中心とする魚介類、下手側がワニなどの動物たち。しかしもっともインパクトがあるのは、左右の袖から舞台を睥睨するゴリラの骨格標本です。別の日にこの舞台を観た知人は、懐かしい理科室の雰囲気、と言っていましたが……。「ろじ式」という名前からつげ義春の『ねじ式』を連想していた私は、メメクラゲの標本がないかな、と目を皿にしましたが、考えてみたらクラゲには骨がないので標本になりようがないのでした。残念。実際のところ、この「ろじ式」の「ろじ」は路地、「式」は儀式で、異空間としての路地を舞台とするセレモニー、といった意味合いがあるようです。

ステージは、彼らの常としてミニマル・ミュージック(音楽:内橋和久)に乗って比較的淡々と進められます。そこには明確なストーリーもなければ、明確な台詞もほとんどなく、さまざまなイメージや雰囲気といったものが単語の羅列によって呈示され、それが観客の脳内でどう化学反応を起こすかは観る者に委ねられている感じ。しかし、繰り返し発せられる「とう、とうや」という意味不明の掛け声がこちらの心の底にいつのまにか沈潜し、見終わった後の余韻の深さは尋常ではありませんでした。

以下、印象の断片の数々を備忘録的に記すことにします。

M1「標本迷路」
工員風の少年たちや昆虫採取の子供達が標本箱によって区切られた迷路を行進。かた・こと、ぺき・ぽきといった、硬質の(骨を連想させる)言葉。地質学・古生物学の単語の連続。舞台前面を横切る移民風の旅行者たち8人。そのひとりが「あっ!」と声をあげたとき、M2へ転換。
M2「地図」
3人の新聞配達の若者達が、それぞれに電話に向かっている。「貼紙見ました」「路地を入ったところのみどり荘」など、ここははっきりとした台詞あり。刺青、殺される犬など、だんだんと凄惨なイメージが展開するようになってくる。
M3「可笑シテタマラン」
頭頂部に急須やら招き猫やら蚊遣り豚やらを乗せた前掛け姿の女の子10人。リズミカルな音楽と関西弁を駆使した、賑やかな言葉遊びの歌。その動きは人形のようで、まるでクエイ兄弟イジー・バルタの人形アニメーションを舞台で再現しているようにも見える。
M4「海図」
帽子の若者達。読み上げられる島の名前が、沖縄から南下して東南アジアに達し、アジアの都市の名前に変わって、日本へと戻る海の上での漂流物の描写に続く。それだけで、アジアを巡る大きな旅の模様が眼前に立ち上がる不思議。屋外から轟く雨音が、潮騒の音と溶け合う。
M5「おかえり」
標本箱が位置を変え、舞台上の見通しがよくなってくる。スポットライトを浴びる少女、ワンピース姿の女たち。その女たちによって語られるいくつものイメージの羅列が、いずれも最後は血なまぐさい方向へと落ちてゆき、おかえり、という言葉に収斂する。
M6「鍍金工」
工員たちの救いのない労働の情景。ひとつの工程が終わると工員は大きく息を吐く。見ているこちらは息が詰まる。肉が削がれてゆく感覚。金属の名前、劇物の名前、硫酸、塩酸、硝酸……青酸カリ。弾丸が仕上がる。
M7「金魚」
縁日の金魚のビニール袋を提げた少年。斜めの光の道。見ててん、捨ててん、……てん・たんと言葉遊び。背後のスクリーンに荒廃した都市のイメージ。土砂降り。音韻はZAからDAへと移り変わり、さらに水道、抜け道、坂道と路地に通じる言葉へ変わっていく。登場人物がどんどん増え、舞台はどんどん広がっていく。音楽は荒々しさを増し、じゃぶじゃぶ、ざぶざぶと水が溢れる中、金魚は放たれる。
M8「地球は回る、眼が回る」
ゆったりとした標本の行進が上手から下手へ。その標本のひとつ、ラジオから関西弁の漫才がノイジーに流れ続ける。舞台上は永遠に静止し、客席も凍り付く。
M9「木製機械」
舞台奥に四角い光のスポットがいくつか、そこで踊られるダンス。ダンスの人数が増し、それはダンスとは呼べないポーズの連続と化していく。
M10「かか・とこ」
路地を歩く。足首、くるぶし、裸足で歩く。風が通る、風が抜ける。昔の歌を密かに歌う。淡いオレンジの斜光の中で、人々の姿は原人の姿へと先祖帰る。路地を歩く、その歩みの中で路地が揺れる、傾く。路地からアジアへと歩みを続ける全員の姿が、徐々に闇に溶けていく。

維新派の公演の特徴のひとつに、「更地から更地へ」というのがあります。役者・スタッフが自分たちの手で野外劇場を組み上げて、そこで公演をし、終わったらまっさらに解体するというもの。上述の「呼吸機械」の舞台になったびわ湖水上舞台もそうした場所のひとつなのですが、今回の東京での公演では「にしすがも創造舎」という、廃校校舎を転用した文化施設(NPOによる運営)が利用されました。その入口には写真の通りの屋台小屋が設けられており、私も終演後にモンゴルパンを食しましたが、これもまた維新派公演のお約束である模様。