烏龍院(上海京劇院)

2009/10/03

京劇四連発の最後は、今回最も期待した演目。すなわち、上海京劇院による「烏龍院」です。上海京劇院は名花・史敏を主役とする「昭君出塞」「白蛇伝」「楊門女将」を観てきましたが、このところ観る機会がなく寂しく思っていたところです。そしてこの「烏龍院」を演出するのは、日本人にも馴染みの深い厳慶谷。茂山家に弟子入りして狂言を学び、流暢な日本語を舞台上でも時おり披露する彼の現代的なセンスが、この演目にどのように活かされているかに注目していました。で、実はもうひとつ。チラシの写真にちらちらと写っている女優さんが、とても可愛いのです。ちょっと猫系の顔ながら、ぱっちりと大きな目がいかにも花旦らしく魅力的で、思わず配役表を確認してしまいました。

◎主な配役
宋 江 范永亮(一級俳優)
閻惜姣 熊明霞(一級俳優)
張文遠 厳慶谷(一級俳優)

猫ではなくて、熊さんですか……。

舞台奥の遠景は、鄆城県の町並みを斜め上から見下ろしたような絵。その四辺を大きく切り取るような枠と共にカーテン越しに見せるだけのシンプルな舞台で、まず棺桶屋の李大才が登場し、閻惜姣と宋江の間を取り持つよう閻婆から依頼された経緯を語ります。この、客席に向かってのモノローグという手法は、この後芝居の全体を通して多用されますが、まずは閻婆、そして宋江、さらに閻惜姣が登場します。チラシの写真通り、やっぱり美人。しかし、写真ではおっとり系の顔立ちなのかと思っていたら、閻惜姣という役柄においてはちょっと不良っぽいキツめの表情が作られています。李大才の説得が奏功して、宋江はこれも人助けと閻惜姣を閻婆ともども引き受けることにしますが、李大才は二人を住まわせる家として烏龍院という空き家を「金融危機の今が買い時」と如才なく勧めます。さすが上海!経済情勢の変化も芝居に織り込むなんて。そしておなじみ、張文遠の厳慶谷が登場すると、客席から熱心な拍手が湧きました。張文遠はひょこひょことした動きがいかにも軽そうな性格の役柄、にもかかわらず早くも閻惜姣とお互いに感じるものがあった様子。一同がそれぞれに舞台を離れた後に一人残った李大才は、棺桶屋が仲人なんて吉と出るか凶と出るか、と後の悲劇を暗示します。

数ヶ月後、今日も張文遠は烏龍院通い。扇子を空中でくるりと回す技は、歌舞伎で時折見るものです。烏龍院の部屋の中にいるのは人待ち顔の閻惜姣ですが、マイムで戸口から入ってきた張文遠とのやりとりで見せる蠱惑的な表情は、本当に魅力的。わざと拗ねた顔を作って「宋江が怖くて誓いを捨てるのね」と唱で迫るのに対して張文遠がこれも唱で言い訳をすると、ぷっと吹き出して優しい言葉をかけます。表情や言葉だけでなく、ピンクのハンカチも小道具として効果的に使われていて、ラブラブの二人は寝室へ。ただし張文遠の軽さが不誠実さを暗に示し、エピローグにつながるのですが、それは先の話。

そこへ、町の噂に不義の気配を感じた宋江がやってきて、閻惜姣は動揺しまくります。ここでもピンクのハンカチが取り落とされたり汗を拭いたりといった仕種で巧みに用いられますが、張文遠を別室に隠して宋江を迎え入れると、開き直って宋江との間に神経戦を展開します。ここでの二人の表情や口調に現れる心理描写は、見どころ。しかし、初めはさすがに言いにくそうにしていた宋江がついに張文遠との密通を指摘すると、閻惜姣はびくびくして客席に向かい「どうしよう?」。一度は下手に出た閻惜姣でしたが、今日は帰らないという宋江に閻惜姣はキレて「あなたこそ寝取られ男だわ!」と言い放ち、怒った宋江が閻惜姣を非難する唱を歌う間、椅子に座って「ったく、うるせーよ」といった顔をしながら口をとがらせたり、耳を塞いで背を向けたり。この宋江の唱も、どんどんアップテンポになって宋江が憤激していくさまを見事に示しており、ついにお前を追い出してやる!となるのですが、実際に外に押し出されたのは宋江の方。捨て台詞を残して帰ろうとするものの、どうしても気が収まりません。それでも一度は義侠心から助けた相手に報恩を求めた自分が悪い、と自分を責めるのですが、さすがの宋江も聖人君子にはなりきれず、何度も行きつ戻りつした末に、もう来ない!と叫んで下がっていきます。この男女二人の息もつかせない言葉のやりとりと、狼狽・疑惑・ためらい・開き直り・怒り・葛藤といった心の動きを余すところなく見せる演技の妙に、圧倒される思いがしました。

閻惜姣は隠れていた張文遠を呼び戻し、梁山泊と通じているらしい宋江のしっぽをつかんで宋江を亡き者にして夫婦になろうと覚悟を伝えると、お金に換えておいしいものでも食べるようにと髪飾りを渡します。ところがどこまでも不誠実な張文遠は、閻惜姣に別れを告げるといきなり日本語で「やった!小遣いゲットなー」。台本によればここは蘇白(蘇州方言)で喜ぶところなのでやるだろうなと思っていたら、やっぱり。

さて、瞼譜も鮮やかに梁山泊から遠路やってきた劉唐は、梁山泊包囲の動きに心を悩ませながら歩いている宋江を見つけて肩を叩きます。そこで普通なら「おぉ、劉唐」となるはずですが、なぜか宋江は知っているようでいないようで、一所懸命相手を思い出そうとする様子。素直に誰だっけ?と言えずうんうん唸っている宋江が、妙にコミカルで近しい存在に思え、笑えます。やれやれといった感じで名乗る劉唐をさえぎってあたりを見回した宋江は、酒屋に入って人払いをすると晁蓋からの手紙を受け取り読み通しますが、ここでの一連のやりとりで、宋江が梁山泊とのつながりを人に悟られないようにするためにどれほど日々緊張を強いられているかが如実に示される仕掛け。しかし、そこへ現れた閻婆(←坂上二郎似)に無理矢理烏龍院へ引っ張られてしまいます。閻惜姣と宋江をなんとか復縁させたい閻婆の迫力にやむなく眠れない夜をそれぞれ椅子に腰掛けたまま過ごすことになった二人は、二時間おきに片方が起きて相手を起こさないように声を落とした唱でぶつぶつ。だんだん物騒な独り言になってきたものの、ようやく鶏の鳴く時刻になって宋江は出て行きますが、閻婆が錠をかけた扉を力づくで開いたときに劉唐から受け取った金と手紙を入れた布袋を落としてしまいます。

後から起きてきた閻惜姣は、宋江の布袋につまずいて何だこりゃ、という表情を見せますが、中に梁山泊と宋江とのつながりの証となる手紙が入っているのを見つけて興奮を抑えきれず、宋江を待ち受けることに。このモノローグでの熊明霞も、最小限の動きに台詞と表情の抑揚を重ねることで凄い描写力を発揮し、客席を掌握します。そこへ戻ってきた宋江は、もう顔色真っ青……なわけはないのですが、そう見えるくらい必死の形相。烏龍院に入って探しても見つからず、無理に自分を落ち着かせると扉を開けたときの動作を無言で再現するのですが、後ろでは閻惜姣が「何やってんだ、ばーか」といった顔を見せています。ついに閻惜姣に拾われたに違いないと気づいた宋江は、自分のうかつさを責めると、寝たふりをしていた閻惜姣に声を掛けます。ここから二人の最後の対決。

手紙を返すかわりに離縁状を書いてほしいという閻惜姣に妻でもないのに離縁状なんか書けるか!という宋江ですが、なら手紙は返さず失礼します、という閻惜姣。折れて言うことを聞く宋江。こうしたやりとりが、張文遠との婚姻を認める、手紙に拇印を捺すという要求でも繰り返され、そのたびに宋江は譲歩を強いられます。それもこれも梁山泊からの手紙を取り返さなければ自分の命に関わるため。しかし、要求通りの離縁状が手に入ったとき、閻惜姣はもう一歩ダークサイドへ足を踏み入れてしまいます。手紙はここでは渡せない、法廷で渡してやると宋江に告げ、震えながら手紙を返してほしいと懇願する宋江の頬を閻惜姣が叩いたとき、宋江の中でも何かが切れて、閻惜姣の襟をつかむと長靴から匕首を取り出します。恐れ、呆然となって宋江の右腕にしがみつく閻惜姣。しかし、ついに宋江の匕首が閻惜姣の命を奪います。

休憩をはさんでエピローグは、台本にある李大才と閻婆のやりとりを省略して、幽霊となった閻惜姣が張文遠を訪れる話。長い水袖を引いて後ろ向きにふわふわと登場する閻惜姣の浮遊感、どこか遠くを見るような表情がこの世のものではない風情をあらわして巧み。これに対してどこまでも能天気な張文遠は閻惜姣と宋江が共にいなくなって自由を満喫していますが、閻惜姣の声にあれこれ思いつく候補を挙げたあげく、またまた蘇白ポイントで「そうだ、昨夜六本木で会った日本のお姉ちゃんじゃないか?」(台本では「昨晩の宴会で知り合った外国のお嬢さんかな」とありますから、アドリブのようで案外的をはずしていませんが、ちょっとやり過ぎの感も……)。さすがに怒った閻惜姣が帰るというのを引き止めて扉を開けたときに、閻惜姣は中へ。屋外での黒い上衣姿から屋内で赤い上衣姿に変わった閻惜姣が切々と誓いの通りに愛し続けてほしいと唱を歌うのに対して、甘い言葉の数々は皆戯れだと言い放つ張文遠。絶望して、それでも天の報いを与えようと張文遠を黄泉に連れていこうと言う閻惜姣。そのとき、一瞬後ろを向いた厳慶谷が再びこちらを向いたときには顔に緑色が塗られ、襟首をつかまれ引きずり上げられた姿になってふわふわ。最後は赤い光に照らされて、桌の上で足ブラとなって終わります。以前、この場だけをとりあげた「活捉」を観たことがありますが、前に観たときは一種のブラックコメディという印象だったものの、こうして通して観ると、最後の唱にあるように一途な真心が裏切られた閻惜姣の哀しみが基底に感じられて、印象が少し変わりました。

ともあれ、今回の四演目の中ではもっとも台詞と演技の比重が大きいこの演目を、最小限の道具だけで弛むことなく見せてくれた范永亮と熊明霞の力量と厳慶谷の演出の手腕に、心から拍手。とりわけ、熊明霞の魅力にはノックアウトされました。ぜひこれからも数多くの舞台を日本で見せてほしいものです。終演後のカーテンコール時に、京劇には珍しく二人の女性が舞台下から厳慶谷に花束を贈り、これを受け取った厳慶谷が主役の二人に譲っていましたが、次回上海京劇院の来日時には熊明霞に直接花束が贈られるといいな(贈りたい)と思いました。

今回の「TOKYO京劇フェスティバル2009」が最終的に日本の観客にどのような評価を受けたのかは、今後の招聘元からの発信を待ちたいところですが、私としてはどの演目もそれぞれに高いレベルで楽しめましたし、何より京劇が、飛んだり跳ねたりだけではなく、役者の表現力・歌唱力の深みと高度な演出技術とが相俟った総合的な演劇であることをはっきりと示した点に意義があったと思います。少し前までは京劇と言えば「孫悟空」で、汗が飛び散るような派手な立ち回りがないと不評だったりしたものですが、少なくとも今回のイベントの各演目を観た観客は、そうした偏狭な京劇像から脱することができたのではないでしょうか。

配役

宋江 范永亮
閻惜姣 熊明霞
張文遠 厳慶谷

あらすじ

飢饉から逃れて鄆城県に逃れてきた一家の父親が病死し、埋葬するお金もなく困窮していたところを、県の押司(上級書記)をしている宋江は助ける。残された老妻・閻婆は娘の閻惜姣を妾にしてさらなる生活の安定を図ろうとする。気の進まない宋江だったが、若い閻惜姣の姿につい心を動かし、母子を烏龍院に囲うことにする。ところが、多忙にかまけ烏龍院へ足を向けないでいるうちに宋江の同僚で年若い張文遠が間男となってしまい、ついには人の噂にもなる。世間体を気にする宋江が烏龍院に来てみれば逢引中、閻惜姣は張文遠との関係を認めて居直る。悶々とする宋江、いっそ宋江を亡き者にして張文遠と一緒になりたいと願う閻惜姣。宋江と梁山泊との関係を示す書状を拾った閻惜姣は、これを証拠に宋江を脅すが、追い詰められた宋江はついに閻惜姣を刺し殺し、逃亡する。成仏できない閻惜姣は張文遠の家を訪ねるが、張文遠に冷たくあしらわれると、絶望した女の魂は張文遠を冥途の道連れとする。