モディリアーニ展

2008/05/11

国立新美術館(六本木)で、「モディリアーニ展」を見てきました。1年前にBunkamuraザ・ミュージアムで見た「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」の記憶が新しいので個人的には新鮮味が乏しいのですが、今回の展示の眼目は、アフリカや東南アジアのプリミティヴ美術の影響を受けたモディリアーニが、それを短い生涯を通じて独自の様式をもつ肖像画に昇華していった過程を示すことにあります。それゆえ、展示会の原タイトルは「Modigliani et le Primitivisme」。そして展示の構成は、次のようになっています。

  1. プリミティヴィスムの発見:パリ到着、ポール・アレクサンドルとの出会い
  2. 実験的段階への移行:カリアティッドの人物像―前衛画家への道
  3. 過渡期の時代:カリアティッドからの変遷―不特定の人物像から実際の人物の肖像画へ
  4. 仮面からトーテム風の肖像画へ:プリミティヴな人物像と古典的肖像画との統合

まずI章では、パリにやってきたばかりのモディリアーニが20代の前半において既にかなり洗練された技巧と様式をもって描いた肖像画が並びます。灰白色のバック、黒い大きな帽子と黒い輪郭線、黄色い肌の上に唇と乳首の赤が鮮やかな《帽子をかぶった裸婦》(1907-08年)、暗い背景の前に膝まづいて悲痛な叫びをあげる女を大胆なタッチで描いた《嘆きの裸婦》(1908年)が目を引きます。

続くII章が、今回の展示の眼目。ここでは、モディリアーニがプリミティヴ美術に触発され、制作した、あたかも人形のようにデフォルメされた女性像=《カリアティッド》(もとはギリシャ建築における人柱像のこと)が多数提示されます。新聞紙の上に線描と水彩(?)によるシャドーで習作的に描かれた《カリアティッド》の豊満さの表現にも目を見張りますが、極めて様式的で存在感の強い《大きな赤い胸像》(1913年)はとりわけ印象的で、その輪郭線は図録の扉に透過性のある紙で置かれて、次のページのモディリアーニの正面からの写真に重なる工夫が施されています。

健康(及び経済)上の理由から彫刻を諦めたモディリアーニが、プリミティヴ美術の様式を試行錯誤しながら絵画の中に移植し、発展させていった時期をとりあげたのがIII章。しかし、この時点で《クララ》(1915年)と《ライモンド》(同)の中に既に、赤褐色を基調とする肌の美しいグラデーションや仮面のような目鼻といったモディリアーニの特徴が現れ始めています。

そして最後のIV章には、モディリアーニの特徴をなすスタイルによる作品群が並びます。《シャイム・スーティン》(1916年)、《女の肖像(通称:マリー・ローランサン)》《若いロロット》(1917年)、《女の胸像(カフェ・コンセールの歌手)》《珊瑚の首飾りの女(マドレーヌ・ヴェルドゥ)》《少女の肖像(ユゲット)》(1918年)、《ロジェ・デュティユール》《アニー・ビャーネ》(1919年)。基本的には正面から上半身を描き、長い首と極端ななで肩がキャンバスの上端中央から下端に向けて膨らんだ円錐状のフォルムを作って画面に安定感を与えていますが、しかしどれ一つとして同じ表情はなく、たとえばマリー・ローランサンのかすかに笑みをたたえた唇や歌手の斜に構えた目元・口元、ユゲットのはにかみを窺わせる目元と少し傾けた顔など、一人一人の内面が見事に描き分けられています。また、ロジェとアニーの顔に見られる色調の美しさは、モディリアーニの技法が完成の域に達したことを示します。

こうしたモディリアーニ絵画の最良の要素はもちろん、彼の愛妻ジャンヌ・エビュテルヌを描いた美しい数点の絵画(《赤毛の若い娘》《ジャンヌ・エビュテルヌ》《大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ》(1918年)、《肩をあらわにしたジャンヌ・エビュテルヌ》(1919年))に結実していますが、モディリアーニの(そしてジャンヌの)生涯が不幸な終わり方をしたように、この展覧会の展示も、半ば唐突に終わります。

上左の絵=《ジャンヌ・エビュテルヌ》のイヤホンガイドで、「瞳が描かれていないのはなぜでしょう?」というクイズが出題されていました。一瞬「メランジ中毒?」(←『砂の惑星』)とアホなことを考えましたが、もちろん正解は「プリミティヴ彫刻に由来する造形重視の結果」。モデルたちは、プリミティヴ美術の様式に翻訳された姿でキャンバス上に写し取られる自分の姿を見て、どういう感想をもったのでしょうか?