塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

THE BEE(ロンドンバージョン)

2007/07/27

三軒茶屋のシアタートラムで、NODA・MAP番外公演の「THE BEE(ロンドンバージョン)」。6月に日本バージョンを観たとき、その静謐な舞台に感心しながらも

井戸の恐怖を煽る「蜂」の存在が、私にはまだ腑に落ちていません。

という感想を持って会場を出たのですが、すると出口のところでロンドンバージョンの席がまだ空いているとのアナウンス。それではもう一度観てみるか、と申し込んでおいたものです。

舞台の作りは、紙を効果的に使った日本バージョンと異なり、畳風の仕切りが施されたオレンジ色のアクリル床の部屋の奥の壁が銀面……と見えましたが実はハーフミラーで、そこに扉や小窓、テレビが設えられています。舞台上にはちゃぶ台風の小さな四角いテーブル、椅子、靴が3組、電話の受話器、電卓など。また長く結ばれたゴムひもが、警察によるバリケードやリポーターが突き出すマイク、あるいはヌードルになります。そして、井戸役のキャスリン・ハンターが客席後方から通路を抜けて舞台に上がって、芝居が始まりました。

ストーリーは日本バージョンとまったく同じですが、登場人物の性格付けが違う点もあります。たとえば、占拠された井戸の家の外で百百山警部が意味もなく鉛筆を削る場面。日本バージョンでは警察の3人が一斉に無言で鉛筆を削って井戸を困惑させるのに対し、ロンドンバージョンでは椅子にふんぞり返った百百山警部1人が電動鉛筆削りに鉛筆を突っ込み、井戸が話し掛けようとすると残りの2人が身振りで邪魔をするなと静止して、そこに、百百山警部のエキセントリックな人間性が被害者であるはずの井戸を威圧するさまが見てとれます。刑事の安直が井戸を小古呂の妻のもとへ連れて行く場面でも、井戸は安直の乱暴な運転や下品な言葉遣い(「ロンドン、ロンドン、愉快なロンドン」まで!)に身を竦ませるのですが、そこは日本バージョンと同じ。決定的に違うと思えたのは、主人公の井戸です。

野田秀樹自身が演じた日本バージョンの井戸は、安直刑事をバットで殴り倒した瞬間から理性の歯止めを失って際限ない暴力に身を委ねていくように見え、特に「私は自分をコントロールできている」と宣言するあたりは独裁者の演説のように聞こえたのですが、キャスリン・ハンターのそれはもっと淡々としていて、むしろ自分に言い聞かせているようにすら感じられます。その後、子供の指を全て切り落としたり、さらには小古呂の妻の指を断つ場面、あるいは返礼のように赤い封筒(中には井戸自身の妻子の指)が届けられて沈む姿などはずいぶん内省的です。その結果、日本バージョンの井戸は内在する狂気を顕在化させたに過ぎないのに対し、ロンドンバージョンでは井戸がどんどん追い詰められていくさまがよりクリアに見えてきます。言ってみれば、日本バージョンは性悪説、ロンドンバージョンは性善説。そこまで単純化して対比するのはさすがに無理があるかもしれませんが、それでも観客はロンドンバージョンの井戸になら感情移入することができますし、その井戸に指を落とされた小古呂の妻が穏やかな表情で指を封筒に入れ、外で待つ百百山警部に井戸と共に仲睦まじく手渡すのも自然に受け容れることができます。そして、閉鎖された小古呂の家の中でかりそめの家族のようになっていた3人の中で、まず子供を、ついで小古呂の妻を失った井戸が、最後に自分の指を切り落とそうとするラストシーンは悲愴で、井戸の哀れさにちょっと涙腺を刺激されてしまいました。

ロンドンからやってきた3人の俳優の演技はいずれも彫りが深く、特に井戸を演じたキャスリン・ハンターは小柄なのに素晴らしい存在感でした。そして、女性であるハンターが演じる井戸に犯される小古呂の妻を男性である野田秀樹が演じるというトランスジェンダーの構図は、日本バージョンでは通常の性別での配役に戻されていることからもわかるように、この芝居の成立にとって必ずしも必須の要件ではなかったようですが、おかげで「本格女優」野田秀樹を観ることができたのは大きな収穫。劇作家・演出家としてだけでなく、演技者としての野田秀樹をしっかり観るなら、こうした少人数での番外公演がやはりベターです。

さて、冒頭の「蜂」に関する謎についてですが、実はプログラムに収録されている野田秀樹と原作者・筒井康隆の対談の中に、野田秀樹自身の説明があることはあります。

『THE BEE』に原作に無い蜂をわざわざ持ってきたのは「怖がる」という部分。この作品の中に流れている、家庭の中に入ってきた井戸を怖がる小古呂の奥さんの恐怖心を膨らませたくて、その象徴としてなんです。

しかしそれなら、蜂の羽音を聞いた途端に当の井戸が瘧を起こしたように震えだすのは一体なぜなのか。小古呂の妻の恐怖が井戸に伝染したということなのでしょうか?それは理にかなっていないし、つまらない。もう少し合理的な解釈を行うことが自分にもできそうな気もしますが、月並みな解説を開陳するよりは、ここではまだ腑に落ちていないままということにしておきます。

配役

Ido Kathryn Hunter
Ogoro's wife / Reporter Hideki Noda
Anchoku / Ogoro / Ogoro's son / Reporter Glyn Pritchard
Dodoyama / King of Chefs / Reporter Tony Bell