モディリアーニと妻ジャンヌの物語展

2007/04/29

Bunkamura ザ・ミュージアムで、「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」。

アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)が35歳の若さで病魔に倒れたこと、その若い恋人(子供をもうけたが結婚はしていませんでした)ジャンヌが彼の死の直後に後追い自殺をしたことは、予備知識としてもちろん知っていたのですが、恋人ジャンヌ・エビュテルヌ(1898-1920)もまた画家としての才能に恵まれ、その作品が今日に伝えられていることは、不覚にして知りませんでした。この「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」は、エビュテルヌの遺族に遺されていたモディリアーニとエビュテルヌの作品と写真を中心にして、芸術家として互いに認め合い愛し合っていたという二人の姿を明らかにしようとしています。

展示は最初に、ジャンヌと出会う前のモディリアーニが描いた愛人ベアトリスや画家スーチンらの油彩による肖像画と鉛筆による素描で始まり、ついでジャンヌの素描・グワッシュ画に移ります。この素描自体、適度のデフォルメと省略とによって対象の本質に達しようとする並々ならないセンスを見ることができるのですが、その後に展示された《ピッチャー、瓶、フルーツ》には心底驚き、しばらく見とれてしまいました。このコーナーには同種のモチーフからなる静物画が3点並んでいますが、グワッシュによる濃い色合いが毒々しい他の2点と異なり、油彩画であるこの絵の中では、清潔な白いテーブルクロスの上にしっかりした量感の果物が5つ、人工の調理具ならではの硬質な円筒からなるピッチャーや瓶の手前に置かれることでフレッシュな生気を放っており、構図・色彩・描線のどれをとっても完璧です。これが17歳の作品であるとは、とても思えません。

また、このように静物画の領域でジャンヌが才能を発揮していることは、モディリアーニとの関係でも興味深いものでした。会場の解説にも書かれていたことですが、モディリアーニがほぼ一貫して肖像画(アフリカの木彫りにインスパイアされた独特の様式で、概ね正面からの上半身を描き、そこにモデルの内面や感情を描きとろうとしました)に徹したのに対して、ジャンヌは(モディリアーニと同様の構図の肖像画も描いてはいますが)静物や室内、あるいは窓から見える身近な景色を通じて、対象の配置や色彩の効果を探求することに主たる関心があったようです。

エビュテルヌの遺族が保管していた作品が展示の中心をなしていることの反映として、会場での解説は二人の生活が幸福な愛情に満たされたものであったという論調になっています。しかしそれを額面通りに受け止めてよいかどうかは、微妙。私が以前読んだことのある伝記によれば、ジャンヌを知ってからもモディリアーニの荒廃した生き方は続いていたのだし、モディリアーニが公の場でジャンヌを虐待することもしばしばで、実はこの展覧会の図録中の解説にも、丹念に読むとそれに類することがはっきりと書いてあります。ジャンヌと知り合う前の2年間、強烈な個性を持つイギリス人女性ベアトリス・ヘイスティングスと共に酒や大麻に耽溺していたモディリアーニは、育ちのよい14歳年下のジャンヌに物足りない思いをもつこともあったかもしれません。それでも二人は、本当に愛し合っていたのでしょうか。また、ジャンヌはなぜ、幼い娘を残して後追いの死を選んだのでしょうか。

展示の最後は、ジャンヌの遺作といえる連作4点。最初の2点は穏やかな室内やニースでのモディリアーニ及び母ウドクシと自分の3人の平和な食事の様子。しかし、そのいずれにも不吉な黒が忍び込ませてあり、3点目《死》でモディリアーニの死を告げられた彼女は、4点目《自殺》においてベッドの上で胸から血を流しこと切れています。図録の解説は、この連作がモディリアーニが意識を失って病院に担ぎ込まれてから息を引き取るまでの24時間のうちに制作されたものとみています。それが事実なら、この連作はモディリアーニの死を予感したジャンヌによる遺書とも受けとれます。

ともあれ、ジャンヌはモディリアーニの死の翌々日早朝、アパルトマンの6階から身を投げることによって、お腹にいた第二子と自分自身の芸術的才能とともに、あらゆる真実を葬り去ってしまいました。ジャンヌとモディリアーニの同棲開始についてジャンヌの両親が二人の愛を認めつつも「誘拐」という言葉を使わずにはいられなかったように、モディリアーニは、死においてもジャンヌを束縛し続けたわけです。それこそが、この展示の原タイトルである「le couple tragique」の意味するところなのかもしれません。