手塚雄二 — 花月草星展

2006/09/09

お昼に横浜高島屋へ遠征して、「手塚雄二 — 花月草星展」を見ました。手塚雄二の絵は4年前の「日経日本画大賞展」に出展された《風雷屏風》を見てそのあまりの迫力に驚嘆し、以後機会があればまとまったかたちで見たいと思っていたのですが、迂闊にも日本橋高島屋での展示を見損ねたので、横浜に巡回してくるのを待っていたのでした。

会場は入口付近ががやがやとうるさく、鑑賞に絶好の環境とは言い難かったのですが、それでも細密でありながら霞がかって落ち着いた色合いで、しかし芯の通った構図と絶妙の装飾性が入り交じった独特の世界が展開していて、見応えがありました。「大学卒業制作から最新作まで、院展出品作を中心に50余点を展観」というキャッチフレーズの通り、この四半世紀の画業が一望できる展示(ただし、会場の展示順は制作年順通りではありません)で、初期の女性を登場させたシュールな絵の中でも《少女季》(1984年)は色合いがレメディオス・バロを連想させて不思議。しかし、その後モチーフは自然の描写が中心を占めるようになり、固く積もった雪の中に立つ樺の木(《飄》)や敷き詰められた金色の落葉と木々を倒影する黄緑の池(《静刻》)や草原の中の池溏(《洸》)といった作品を通じて、画風に茫洋とした雰囲気と細密な写実とが同居するようになってきます。そして、1990年代に入って登場した《市民》と題された2作は、なんとも暗く異様な緊迫感が漂っています。1作は深く険しい表情の壮年の男性を見上げた構図、もう1作は群像で恐らく手前右手から左に向かっている人物はもう1作の壮年男性ですが、悲嘆にくれて頭をかかえる人物や物悲しげな表情の女性が薄明かりに沈むように描かれ、そして壮年男性の前にいる人物は、自分の首を胸の前に抱えて左手へ歩み去ろうとしているように見えます。つい引き込まれて何度もこの絵の前を往復してしまいましたが、これはいったい、何を描いたものなのでしょうか?

ちなみに、多くの絵で見られるこうした昏い画面は、図録に収載された画家自身の説明によれば一度黒く塗ってから洗い流すという作業によって紙に「侘び」を与えたものだそうです。

もっとも、この作品は画家の作風の系譜の中では恐らく異色。異色と言えばくだんの風神や雷神も元気一杯で壁面を占めており(《雷神雷雲》/《風神風雲》)、斜めのフレーミングで切り取られた暴力的な勢いの滝(《幻の瀧》)や、横7mに渡って一面に荒ぶる波濤(《海音》)が凄まじい迫力で、見ていると動悸が高鳴るようですが、そうした体力勝負の大作群とは対極をなす穏やかなで細密な画風が画家の本領のようにも見えます。

不思議な光の中に浮かぶ蜘蛛とその巣網にかかる橙や黄の落葉が装飾的な《麗糸》から、海の彼方に浮かぶ上弦の三日月を描く《月読》や《星と月と》から夜空に淡く光る星月が重要なモチーフとなり、星がそのまま花びらになったかのような《華》、薄の原が根元から金色の火の粉を撒き散らしているように見える《煌草》に見られる草花がこれと対をなして美しく、そして、山中の雪の森にうっすらと乳白色の霧がかかる《山音》、水墨画のような黒を基調とする静寂の海を描く《海霧》、日没の残照に沈んでいく森を見上げる構図の《夕霧》の3点の屏風絵には、絵の奥へと吸い込まれるように見入ってしまいました。