塾長の鑑賞記録

塾長の鑑賞記録

私=juqchoの芸術鑑賞の記録集。舞台も絵も和風好き、でもなぜか音楽はプログレ。

Art Zoyd Metropolis live concert

2002/11/02

サイレント・SFムービーの金字塔『メトロポリス』とアバンギャルド・ロック(って何?)Art Zoydのコラボレーションプロジェクトを、神奈川県民ホールで観ました。

先にArt Zoyd(アール・ゾイド)について説明すると、1969年にフランスで結成されたチェンバー・ロック系のバンドで、その後メンバーを入れ替えつつ徐々に活動内容をユーロ・プログレとしてのそれからダンスや演劇作品への楽曲提供に移し、1990年代初頭からは20年代のサイレント映画に曲をつけてライブで演奏するというプロジェクトを始めています。これまで『吸血鬼ノスフェラトゥ』『ファウスト』などを手掛け、この2作品は1996年に日本でも披露されたそうです。メンバーは現在6人ですが、今回『メトロポリス』で演奏するのはそのうち4人。2人がエレクトロニックパーカッションと銅鑼が主体の打楽器群を扱い、2人がキーボードという構成(パーカッションの1人は部分的にキーボードも弾いていました)で、スクリーンの左右の高いところに打楽器ブース(向かって左=Laurence Chave、右=Didie Casamitjana)、その手前の一段低いところにキーボード(向かって左=Yukari Bertocchi-Hamada、右=Patricia Dallio)というシンメトリックなステージ構成になっていました。演奏された曲は明確なメロディやリズムをもつ部分は少なくて映像に合わせた効果音的な楽器の使い方が多く、映画が始まってはじめのうちはいつもの習性で誰がどの音を出しているのかを見極めようときょろきょろしていましたが、そのうちスクリーンに集中するようになると映像とシンクロした彼らの演奏がすんなりと耳に入るようになってきて、ストーリーの進行を実に巧みにサポートしているのが感じられ、銅鑼の連打がドラマティックなエンディングまで切れ目なく続いた演奏は(「BGMとして」という意味でよいのなら)コラボレーションとして成功していたと感じられました。

というわけで、フライヤーや会場で配付されたパンフのキャッチは「Art Zoyd Metropolis live concert」ということになっていますが、主役は(少なくとも私にとっては)あくまで映画『メトロポリス』です。1926年にフリッツ・ラング監督によって製作されたこのサイレント映画(ただし、上演時に演奏されるための伴奏音楽もありました)は、近未来社会の階級対立と和解を空想的な映像表現で描ききり、後のジョージ・ルーカス等に多大な影響を与えたSF映画の原点とされています。しかし、オリジナル・プリントは2時間半にも及ぶ長尺のものでしたが、あまりの長さに興行的に不適だったことから短縮されたり、各国へ輸出される際にそれぞれの事情で編集されたりして元の姿がわからなくなっていました。しかし、この数十年間にわたって原形への復元作業が続けられ、入手可能な限りのネガを収集するとともに、不足する部分は字幕でストーリーを補うことによって、現時点において最もオリジナルに近い形として蘇ったのが、今回公開された「最終完全版」です。この辺りの経緯は映画の冒頭に字幕で紹介されており、サイレント映画としての原典に最初から付されていた字幕と、映像の欠落を補うために後から挿入された字幕とでは字体を変えてあります。

21世紀の未来都市・メトロポリスを支配するヨー・フレーダーゼンの息子フレーダーは、終わりのない労働を強いられている労働者階級が押し込められている地下世界を訪れ、そこで信仰を説く美しい女性マリアから地上世界と地下の人々との架け橋になることを懇願される。フレーダーゼンは労働者階級の中に不満が高まっていることを知り、旧知の科学者にマリアに生き写しのロボットを造らせ、この偽マリアを労働者階級の中へ送り込む。偽マリアは労働者階級を煽動し、工場に大暴動が起こる。科学者に囚われていた本物のマリアはフレーダーと再会し、暴動のために水没しようとしている地下世界から労働者階級の子供たちを救い出して地上へ避難させる。子供たちが死んだと思い込んでいた労働者たちは扇動者である偽マリアを火あぶりにするとロボットの正体が現れ、さらに子供たちが無事であることを知り、暴動は収まる。そしてフレーダーゼンと労働者たちは、和解する。

「頭脳と手とをつなぐのは心」というあまりにも都合の良いエンディングの当否にはここではあえてふれないことにして、やはり映像表現の凄さはたっぷりと味わうことができました。純真なマリアと毒々しい偽マリアを見事に演じ分けたブリギッテ・ヘルムの演技は他の俳優を圧倒していましたが、それ以上に画面に展開される未来社会のイメージは、これが76年も前に作られたとはとても思えないほど前衛的です。バベルの塔にもなぞらえられた空高く聳えたつ支配者のビルディングはその谷間を飛行機がゆらゆらと飛び交うことで巨大さが強調され、人形の行進のような労働者たちの歩みの無気味さはたとえようもなく、巨大な機械と人間が一体化した地下工場は正面に階段を持つ造型があたかもメソポタミアのジッグラトを思わせて異界のもののようであり、滑らかな動きを示すロボットの美しさと偽マリア誕生の場面の特殊撮影の見事さには息を呑み(ロボットが最初に立ち上がるシーンでは背筋がぞくっときました)、暴動のシーンの迫力(3万6千人のエキストラ!)に圧倒されて……ときりがありません。というよりも、スクリーン上に次々に展開するこれらの映像表現こそがこの映画の真の主役であると言えるでしょうし、その後の映画やMTV、レコードジャケットなどに引用された映像の記憶が蘇ってきて、まるでデジャビュのようですらありました。劇中に登場する歓楽街が「ヨシワラ」でそこにボンボリが乱舞しているのはご愛嬌(?)ですが、映画の舞台となっている2026年(製作年の100年後)と同じ世紀である現代のテクノロジーが生み出した音楽がぴたりとマッチするのも、この作品の先進性を証明しているように思えてきます。

ともあれ、この機会を逃さなかったのは正解だったと思わせてくれた映画 / 演奏でした。

ミュージシャン

Patricia Dallio keyboards
Yukari Bertocchi-Hamada keyboards
Didie Casamitjana percussion
Laurence Chave percussion